「消費と貯蔵 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

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「消費と貯蔵 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

消費と貯蔵

もちろん、この第二の欲望は必ず物質的欲望をともなふものであるから、それが満足させられるときには、必ず一定量のものの消耗を避けることはできない。のみならず、ときには、ひとつの物質的満足を引きのばす行為が、逆にそれ自体、別の物質的欲望を誘ひだし、一見すると、精神的欲望が新たな“もの”の消耗をひき起してゐる、といふ印象をあたへる場合もあらう。
たとへば、牛肉の消耗を引きのばすために、われわれがもし彫刻をほどこした銀の皿を使ふとすれば、あたかも、食欲の引きのばしが新たに銀の消耗を促した、といふやうに見えるかもしれない。だが、注意深く見れば明らかなやうに、食事の時間を引きのばすのは、本質的に作法や会話といった人間の行為であって、そのために食器や調度のやうな物質的手段を使ふことは、けっして必然的な条件ではなあ。いはば、銀の食器は、生産における道具のやうな存在ではなく、演劇における舞台装置や小道具のやうな存在であって、人間の行為から見て絶対的に不可欠な手段ではない。たしかに、われわれはさうした物質的手段を使ふことを好み、しかも、それが潤沢にあることを好むのは事実であるが、これは、われわれに別に物質にたいする飽くなき欲望があって、それがあらゆる機会をとらへて独自に発動してゐる、と見るべきであろう。
この場合、皿のために銀を使ふのは、人間に初めから銀にたいする物質的欲望があるからであって、それは必ずしも、食欲についての第二の欲望が必然的にひき起した事態だとはいへない。それどころか、銀を美しい皿に造形し、それを注意深く愛用することは、銀にたいする物質的欲望からいへば、そのこと自体が欲望の引きのばしだと見ることができる。なぜなら、銀にたいする欲望は、それが純粋に働く場合は、できりだけ大量に所有することによって満足されるが、もっとも効率的な大量所有のためには、丹念な加工や、その念入りな鑑賞はかへって妨げとなるからである。もし、銀にたいする欲望を純粋に満足させようとすれば、いっさいの注意と手数を省いて、ただ銀の延べ棒を積むことがもっとも早道であるのは、自明であろう。
ついでながら、この例は、人間の物質的欲望が単独で無限にふくれあがる場合、それは消費とは無縁であるどころか、その正反対の行為をひき起す。といふ逆説を示してゐる。対象が銀であれ牛肉であれ、また美しい衣裳であれ、物質的欲望が無限に増大するのは、のちに詳しく述べるやうに、それらを所有し貯蔵する場合だけであり、裏返せば、消費をみづからに禁じた場合のほかにはないのである。考えてみれば、人間の物質欲が無限だといふとき、われわれがただちに思ひうかべるのは金銭への欲望であるが、さうするとき、われわれはものの保存と消費といふ正反対の概念を混同してゐる、といはなければならない。金銭がすべてのものと交換されうるといふ事実が示すやうに、われわれが金銭への欲望を満たせば満たすほど、正確にその分だけ、われわれはなんらかのものの消耗への欲望を節制してゐるからである。