「坐禅の心は安楽死 - 横尾忠則」坐禅の心は安楽死 から

 

坐禅の心は安楽死 - 横尾忠則坐禅の心は安楽死 から

『我が坐禅修行記』が最初の単行本の表題だったが、文庫本にする時に書名を『わが坐禅修行記』と変えることで、少し柔らかくしたつもりだった。今回、平凡社ライブラリーに加えられることになった時、さらに全面的に書名を変更したほうが時代に合うのではないかということになり、あれこれ新表題のアイデアを出してみた。その中でフト直感的に浮かんだのが「坐禅は心の安楽死」だった。
安楽死」なんて言葉はギョッとするかもしれないが、誰だって苦しみながら死にたくないところから、如何に楽に死ねないかという願望から生まれた、死ぬことの技術を表した言葉が「安楽死」だったように思う。
ちょっと話がずれてしまったが、禅の技術は坐禅することにあるわけで、坐禅を通して悟りに至るというのが最終的に禅の目的ではないかと思う。ところで悟りとは如何なる状態をいうのだろう。この坐禅体験記の二回目に訪ねた竜泉寺で指導を受けた井上義衍[ぎえん]老師は、人間は元々悟った状態だとおっしゃった。それが人間成長するに従って、次第に分別くさい物の考え方をするようになり、ますます悟りから遠のいていくというのだ。だから坐禅をすることで、本来の純な赤子のような心に戻っていく、そんな方法が禅の根本ではないかと、ぼくなりに考えてみたのだった。
坐禅することは、ある意味で去来してくる雑念との戦いみたいなところがある。次から次へとろくでもことが浮かんでくる。現在抱えている悩ましい問題に限らず、すでに記憶の壁の向こう側に去ってしまったような大昔の事柄が再び壁を越えて、こちらにやってきて、現在の自分の心に迫ってきたりもするのである。つまり潜在意識に溜まっていた想念が坐禅をすることで顕在化したのだ。坐禅は潜在意識の顕在化を必ずしも否定してはいない。むしろこのことによって、心の奥底に溜まっている毒素が吐き出せるというのだ。このようにして次から次へと去来してくる雑念を吐き出すことによって、心の奥の不透明な種子を安楽死させることになるのではないだろうか。
ぼくが「安楽死」という言葉を使ったのは、このような意味からである。心の奥の闇にじいっと閉じ込められている想いや考えが、何か問題が生じた時に一気に駆け昇ってきて、われわれの表面意識をゴチャゴチャにして問題をさらに悪化させてしまうのである。だからそのような問題に振り回されないようにするために坐禅をしなさいと、禅僧はいうのである。坐禅することによって、問題を起こす種子をなくしてしまえばいいていうことではないだろうか。
坐禅によって、次から次へと去来してくる思いや考えと格闘するのではなく、流してしまえばいいというのだ。とにかく、雑念は底なし沼のようにいくらでもボコボコボコと沼の泡みたいに潜在意識から昇ってくるのである。それをとことん吐き出させてしまえば、そのうち昇ってくるものがなくなるというのだ。つまり、煩悩の種子がなくなるわけだ。自分を悩ませ苦しませ迷わせていた原因がなくなってしまったのである。それを悟りというようだ。生まれた時にはこのような問題を起こすような種子は何ひとつない純粋無垢な赤子だった、そんな元の赤子の状態に時間を逆行させるのが禅の教えではなかったかと思うのである。だから井上老師は「人間は生まれながらに悟った存在である」とおっしゃったわけだ。坐禅をすることでそんな原石の状態にわれわれを戻す、それが禅の極意らしい。
坐禅をすることで、何ひとつ心を苦しめることなく悪想念を消して、気がついたら悟っていたという状態に持っていきたいというのが禅の学習であるらしい。心を悩ませ苦しませないで気がついたら向こうの世界、つまり悟りの世界に心を移行させるというこんな状態こそ、まさに心の安楽死である。心の安楽死ができている人は小さい感情に振り回されたり、小さい出来事にこだわったりはしない。よく「あなたのこだわりは?」と聞かれることがあるが、このこだわりこそ煩悩そのものなのだ。だからあまりいい言葉ではないと思うが、メディアではこの言葉がかなり流行している。もちろん煩悩は悪いことではない。誰もが持っている心の性質だ。人間は肉体を所有して生きている限り、煩悩はある。
だけど「みんなで渡れば怖くない」式に、煩悩を後生大事に温存することもなさそうだ。煩悩があることで人間は成長し、目的を達成する。しかし度が過ぎるとその煩悩が苦の種に早変わりする。じゃあ煩悩がなくなれば生きていけなくならないのか?という意見も出てきそうだ。この考えは間違い!とは誰もいっていない。だけど煩悩がなければ、もっと大きいことが達成できるというのだ。それは人間社会の法則やルールによって成功する以上に、もっと宇宙的な軌道に乗せてくれるかもしれない。そこまでいくと、いちいち考えなくとも、その人の運命はその人にもっともふさわしい方法でもっともふさわしい地点に自然に到達できる。
そんなことを禅は知っていて、その方法として坐禅を提示したのだろう。こんな余計な努力や苦労などしなくても、坐禅ひとつでそうなるんですよと禅は説く。このような考えは机上の知識ではなかなか得られない。肉体を通してのみ得られる。だから肉体は多少つらくても坐禅をしなさいと作務をしなさいと、参禅した禅寺ではコンコンと坐禅を通して教えてくれる。
といって坐禅ぐらいではなかなか悟れません。別に悟ろうとしなくてもいい。坐禅に期待を持つことは逆にマイナスになる。何も知らずにヒョイと出掛けて坐ればいい。坐禅は努力するところでも、がんばるところでもない。気分としては遊びのつもりで行くのが一番いい。ヘマを叱られても、心の中では平気でいることが大事だ。遊び心があれば叱られても叱られた気がしないからだ。参禅によって、以前より何か少し変わったかなという気がすることがある。それは知らず知らずのうちに、事実を事実として眺める視点ができているからだ。従来だったら事実に主観的な感情や個人的な考え方を与えて対処していたから、物事がスムーズに行かなかったのである。坐禅の使用前と使用後を自分で確かめてみることで、何が変わって何が変わっていないのかが定められると思う。
「心の安楽死」への一番の特効薬は、もっとも安上がりの坐禅かもしれない。気がついたら、痛くも痒くもなく立派に心が安楽死を遂げてくれているのだから、いうことなしではないだろうか。