「僕は経験を信じる - 高津臣吾」二軍監督の仕事 から

 

「僕は経験を信じる - 高津臣吾」二軍監督の仕事 から

僕は経験を信じる
いま、指導者は様々な課題に直面している。その解決のための様々な情報もあふれている。
野球でも様々な理論を使って選手たちを指導することができるようになった。アメリカ仕込みのデータ。指導法の分野では、パワハラ体罰の問題が取り上げられている中で、心理的なアプローチもいろいろと学ばなければならなくなった。
その中で、「経験」をもとにした指導法の影が、少しばかり薄くなってきたような気がする。
僕は経験を信じる。プロ野球はどれだけ練習したかが勝ち負けを分ける世界だと身をもって体験してきたからだ。
僕のキャリアを振り返ってみると、入団2年目の1992年の秋がひとつの転機になった。その年、ヤクルトは日本シリーズに進出し、西武ライオンズ相手に3勝4敗で敗れた。
当時はシーズン130試合で行われていて、ヤクルトは69勝を挙げてセ・リーグで優勝し、相手の西武はパ・リーグで80勝も挙げていた。強い相手によくぞ最終戦までもつれ込んだと思う。
このシリーズで、ヤクルト打線は西武の潮崎哲也に苦しめられた。サイドスローからのシンカーに歯が立たず、もしも潮崎を攻略していたらシリーズの勝敗は入れ替わっていただろう。
日本シリーズが終わり、野村克也監督と秋季キャンプで面談したところ、監督から、
「高津、あの潮崎のシンカーをお前投げられんか?」
と聞かれた。実は、それまでも「なんちゃってシンカー」みたいな球は投げてはいた。しかし、潮崎の完成されたシンカーとはまったく質が違う。
「無理です」と僕は言ったのだが、野村監督も引き下がらない。
「全力で100キロのボールを投げりゃいいだけだよ。高津、全力で腕振って100キロなんて誰も投げられない。潮崎とは握りが違っても構わない。とにかく100キロだ。これを覚えたらウチの広沢だって、ハウエルだって打てないぞ」
と野村監督は言うのだが、「このおっさん、何を言ってるんだろう?」と思っていた。
それでも、僕にはこれがチャンスだと分かった。監督が望んでいる球種が投げられるようになれば、絶対に一軍で仕事を任せてもらえると思った。だから、秋季キャンプで必死に練習した。全力で、スローボールを投げ続けた。
しかし、投げても投げても、ボールが速すぎるのだ。まさか、プロに入って「遅さ」を追求することになるとは想像もしていなかった。
ただ、それを繰り返しているとコツがつかめてくる。1日に200球、300球と投げ込んだ。ひょっとして、僕がその時の二軍監督だったら、
「もう、そのへんでやめとき」
と言っていたかもしれない。それでも、僕は投げ続けた。どうしてもシンカーをマスターしたかった。
それに、野村監督は僕がシンカーの練習をするのをずっと見ていた。監督は、どちらかといえば練習中は打撃の方にはあまり構わず、ブルペンにいて投手を見ていることの方が多かった。
そして秋季キャンプを打ち上げるころ、僕は野村監督が望んだようなシンカーを投げられるようになっていた。翌1993年、僕はクローザーに指名されていた。
いまにして思う。
野村監督は、僕のモチベーションをめちゃくちゃ上げてくれた恩人だ。僕に明確な課題を示し、そこから先は僕がシンカーに取り組むのをじっと見守ってくれた。
二軍監督を務めるようになって、僕はこれが若い選手を教えるにあたっての「原体験」になっていると思う。
結局、モチベーションを高めるカギは、話し合い、監督と選手との間にどれくらいの信頼が生まれるかによる。
選手に宿題を投げかけ、それを根気良く見守る。
僕はそうやって選手のやる気を引き出したい。
ただ、付け加えておきたいのは、二十歳前後の選手たちから僕も刺激を受けているということだ。
2018年、サウスポーの高橋奎二は一軍でも勝利をあげるまでになったが、1年を通してローテーションを守り、28試合ほど投げるまでに身体は完成していない。それはこれからの課題になる。
高橋を育成するにあたっては、細心の注意を払い、中9日からスタートして、段々と登板間隔を短くしていくプランを立てていた。中9日であれば、高橋は一軍でも素晴らしい投球を披露できる能力が備わっている。
僕が高橋に教えなくてはいけないのは、登板間隔を短くしていった時に、身体にどんな変化が起きるかを自覚させることなのだ。
リカバリーが思ったように進まず、疲れていても構わない。それは高橋の課題であって、これからコーチ陣と一緒になって解決していけばいいからだ。自覚させ、どうしたら次の準備ができるかを教え、覚えさせるのが僕の仕事だ。
高橋は上昇志向が強く、とことん練習したがる。だから僕も意気に感じ、好きなだけやっていいと言う。ウェイトトレーニング、腹筋、ランニング、なんでもいい、納得いくまでやれば、それが身体を作っていく土台になる。
ただし、登板間隔や球数はこちらが管理する。
高橋だけではない。寺島、梅野、古賀、廣岡、村上といった選手たちは、僕に刺激を与えてくれた。
二軍監督として僕も勉強し続けなければならない。息子と同じような年齢の選手たちからも、たくさん教えてもらうことがある。