「白湯の力 - 東海林さだお」人間は哀れである から

 

「白湯の力 - 東海林さだお」人間は哀れである から

おなかをこわして久しぶりに白湯[さゆ]を飲んだ。
そうしたら、これがなんともしみじみと心にしみたんですね。
なんの味もしないただのお湯。
熱くもない、冷たくもないただのぬるいお湯。
おなかをこわしたので、仕方なく飲んだのに、しみじみと舌にしみ、ノドにしみ、心にしみた。
決しておいしいわけではない。
じゃあ、まずいかというと、決してまずくはない。
なにしろまるきり味がないのだから、おいしいとか、まずいとかの世界ではないのは確かだ。
じゃあ、味がないものはすべておいしくないのかというと、そんなことはない。
水もまるで味はないが、ノドが渇ききったときにゴクゴクとノドを鳴らして飲む冷たい水は明らかにおいしい。こんなにおいしいものはない、というぐらいおいしい。
そういうときは、無味であるはずの水に、甘ささえ感じることがある。
フーフー吹いて、すすりこむときの空気の混ざり具合とか、湯の震動などが味のように思えるのだろうか。
少しずつ冷めていく温度の変化が、微妙な味の違いのように感じるからだろうか。
この両者に比べると、白湯は明らかに完全な無味だ。
世の中の、無味派の大代表。
街角に並んでいる缶飲料の自動販売機の中は味が氾濫している。
甘いですという方向、無糖ですという方向、発泡という方向、酸味ですという方向、ビタミンですという方向、あらゆる方向の飲料がズラリと並んでいる。
白湯は何の方向も持たない。発泡もしないし、ビタミンも何もない。
缶売機によく書いてある「冷た-い」という方向もなければ、「熱-い」という方向もない。
ただ「ぬる-い」と言ってるだけだ。
味が氾濫する世相の中で、白湯はひたすら沈黙を守りつづけている。何も発言しないし、何も主張しない。
ではこのへんで、実際に白湯を一杯飲んでみることにしよう。
何の味もなく、冷たくもなく、熱くもなく、何も発言しないし何も主張しないはずの白湯が、実は意外な実力の持ち主であることをわれわれは知ることになる。
白湯を飲む湯呑みは、丈の高い深みのあるタイプではなく、底の浅いタイプがよいように思う。寿司屋の大型湯呑みなどはなるべくなら避けたい。
小さめ、浅めの湯呑みにやや少なめ。
丼にナミナミというのも避けたい。
いま、小さめ、浅めの湯呑みにやや少なめの白湯をそそぎました。
湯呑みからはほんの少しの湯気。
そのかすかな湯気が、
「あらかじめ断っとくけど、何の味もしないよ。それでいいんだね」
と言っている。
もちろん当方はそんなことは十分承知している。承知の上で一口すすりこむと、
「何の味もしないじゃないか」
と、どうもなんだか不満を感じる。
白湯は気まずく口の中を流れていく。
二口目。
「こんどもまた、何の味もしないけど、本当にそれでいいんだね」
と白湯が念を押し、こっちも、
「たったいま、そのことはよーくわかったから」
と言い、二口目を飲む。すると、
「本当にもう、もうちょっと何とかならないの」
という不満がまたしてもわく。
“飲み物という物は飲んだら必ず味がある”という習慣が、舌にしみこんでいるのだ。
ここでつい、
「ここに玉露園の梅こんぶ茶入れてみっか」
とか、
永谷園の松たけのお吸い物の素入れてみっか」
という誘惑にかられる。
白湯の初心者は必ずそういう誘惑にかられる。
味のないことが何だかとてもじれったいのだ。じれったくて、思わず湯呑みの中をのぞいてしまう。
「本当に居るのか-」
と声をかけたくなってしまう。
湯呑みの中にちゃんと居るのだが、どうもなんだか居ないような気がしてしまう。
思わず湯呑みをゆすってみる人もいる。
さざ波が立って、ちゃんと居ることがわかる。
そのじれったさをこらえて三口目。
依然として味はない。四口目。
このあたりから、どういうわけか心がしみじみしてくる。
立って飲んでいた人は、四口目あたりで椅子を探し、五口目あたりですわりこむことになる。
六口目。
なんだか滋味のようなものを感じる。
ただのお湯たから、滋味なんかあるはずないのだ。七口目。
なんだか感謝のような気持ちがわいてくる。内省的になる、というのとも少し違って、温かくて静かな感謝。
冷たい水をコップでグーッと飲むと、
「サァー、いっちょいったろか-」
というようなシャッキリした気分になるが、白湯はその逆の気分になる。
白湯教というのはどうだろうか。
広い講堂のようなところで、大勢の人がすわって白湯を飲んでいる。
ただそれだけの宗教なのだが。