「手焼きせんべい - 林家木久蔵」日本の名随筆別巻68下町から

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「手焼きせんべい - 林家木久蔵」日本の名随筆別巻68下町から

いまは亡き私の落語の師匠であった林家彦六は、あいさつの折の手みやげというと、必ず炭火焼きの醤油を二度ぬりした塩せんべい、長方形のずしりとした缶入り二十枚詰めというやつを、大事そうに風呂敷に包んで、親しい人のところへ自分自身が持参して歩き、配っていた。
それは浅草の「ふな屋煎餅」へ特別注文したもので、茶黄色く仕上がり、こげめのついた、たいへん香ばしいせんべいであった。
それをたまに、弟子たちに一枚ずつ、さも大切なもののように、純金の小判か何かをいたわりながら手渡すごとく、それぞれがさし出す手のひらにのせてくれたものだ。
いただいたせんべいを歯でわって、口の中に大きいままほおばれば、醤油のにおい、焼けこげの香りがふわあっと鼻いっぱいに伝わり、それはたしかに下町の路地の味がした。
私が最初についた師匠、のちにガンで亡くなった桂三木助も塩せんべいが好物で、お茶の折は大事にだいしにそれをほおばっていた。歯が悪いから、かむというよりピチャピチャとかけらをしゃぶり、生地からしみ出る醤油の辛さを舌の先で楽しんでいたようだ。桂家の紋入りの缶を、下町人形町甘酒横丁の草加せんべい店であつらえて、何か配りものが要るときは三十缶、五十缶と注文し、弟子たちに手分けさせて、ひいきすじに持たせていた。
塩せんべい、というが、本当は醤油焼きせんべいというべきか。まったくせんべいというお茶受けは、その選んだうるち米と餅米の生地に醤油、そして炭火の焼き加減で、うまい、まずいが決まる。林家彦六の愛したふな屋のせんべいは、固焼きの二度醤油であるから、パリッとかじれば、「どうでい、おらあセンベだよ!」と口の中に迫ってくる。
対する桂三木助せんべいのほうは、醤油もサッと一度の刷毛ぬり、生地もいく分やわらかいし、ところどころ刷毛のぬりあとがせんべいに残っていたり、色も黄色っぽかったりこげ茶だったりして、その変化がいかにも手焼きっぽくて面白かった。
また、草加屋ではせんべいのクズ、焼きそこない、くずきり(かけらのこと)も一袋に詰めて売ってくれるが、これがなかなか楽しいもので、甘辛、ゴマ、唐がらし、のり、シソ等のせんべいのかけらが、あっ、これもある、こんなのも入っていたと、その店のサンプルの集大成ともいえて、店の心意気がよくわかる。

桂三木助という芸名は、先代の長男であり立教大学を卒業して、やはりオヤジと同じ道、落語家を志した鼻のデカイ柳家小きん(柳家小さん師門下)が二つ目から真打に昇進して継ぎ、四代目桂三木助を名乗っている。私たちもと弟子にとっては、師匠の名跡復活ほどうれしいものはないから、私は、先代三木助師匠の未亡人にお祝いをのべにたずねた折、やはり何がいいかとさんざん迷ったあげく、田端にある「味の店」という、うまい手焼きせんべいの詰合せをぶらさげ、祝いをそえて口上をのべたものだ。味の店のせんべいも、かたくなく、やわらかくなく、オツな江戸の菓子なのである。
およそ“せんべいのうまい食べ方木久蔵流”は、加賀金沢の棒茶のアツアツを大きな湯呑みにたっぷりと、初冬であれば、新落花生カラ付き、むろん煎ってあるのを山盛りに器にとり、手でくだいたせんべいと、落花生の実をむいたものと、茶をすすりながら交互に口に運ぶことで、せんべいバリリの落花生(この場合ピーナッツとはいわない)ポリリとかみくだき、また茶を飲んではせんべいと落花生をやっつける。おやつにこんなうまいものはないのではなかろうか......。
桂三木助のところに私が弟子でいた頃、師匠はうまいせんべいを弟子たちにとられまいと、和風の寝室にある枕もとの小型金庫のなかにそれをしまっていた。決して食べものにケチな人だったわけではないが、自分が足を運んでやっと見つけてきた味を、そうした努力をしないでバリバリやってしまいそうな下等食通の連中には、たとえせんべいであっても、わけてやるのはおしかったのだろう。金庫のダイヤルをあわせ、パチンとひらいた金庫の中から、よくうやうやしくせんべいの丸缶を取り出していた。
師匠が金庫からせんべいを取り出す姿はこっけいで、私がその姿を見たりすると、びっくりして、
「おや、そこにいたのかい?仕様がねえなァ、はいよ、手え出しな......誰にも言うなよ」
と一枚、そっと手のひらを出すとその上にのせてくれたものだ。
彦六師もそうだった。やはり大切そうに一人一枚のせんべいをくれるのだ。子供のおやつじゃァあるまいし、五百円札一枚くれたほうがよっぽどいいや、とそのときは思ったりしたが......。
その影響というのかどうなのか、私も噺家になって二十五年になるが、せんべいには目がない。したがってカミさんや子供たちに、足でさがしてきた貴重なせんべいをバリバリと食べられてしまうのがしゃくで、まず食べる分だけをわけて器にとっておき、あとはビニール袋を幾重にもかぶせて湿らぬようにして、そのせんべい袋を家の中あちこちにかくしているのである。
(以下割愛)