「旅のいろいろ(抄) -  谷崎潤一郎」作家の山旅 から

 

「旅のいろいろ(抄) -  谷崎潤一郎」作家の山旅 から

たしか独逸[ドイツ]人であったと思うが、或る旅行家の外国人の話に、日本で一番西洋かぶれのしていない地方、風俗習慣建築等に古い日本の美しいものが最も多く保存されている地方は、北陸の某々方面であるという。そうしてその外国人は、日本へ来るとその地方へ旅することを楽しみにしているのだが、それが何処であるかと云うことを成るべく人に知らせないようにしている。彼は著述家であるけれども、決して著書の中にその地の名を挙げない。と云うのは、一遍その土地が世間に知れると、都会の客が我も我もと押しかけるようになり、地元でもいろいろな宣伝や設備をやり出す結果、本来の特色が失われてしまうことを恐れるからである。食通などにもよくこの外国人と同じような心がけの人があって、うまいものやを発見してもなかなか友達に教えない。甚だ意地悪のようだけれども、そう云う家は小体にチマヂマと商売をしているうちがよいので、繁昌し出すと、直きに増築などして外観は立派になり代りに、材料を落としたり、料理の手を抜いたり、サーヴィスがぞんざんになったりする。だから誰にも教えないで、こっそり自分だけ食べに行く方が、いつまでも楽しむことが出来て、その家をスポイルすることがない。実は私も、旅行に関する限り右の外国人の心がけを学んでいる一人であって、自分の気に入った土地とか旅館とかは、よほど懇意な友達にでも尋ねられる場合の外は、めったに人に吹聴をせず、文章などに書くことは禁物にしている。これは※まこと[難漢字]に矛盾した話で、たまたま泊りあわせた宿が大そう居心地がよかったり待遇も親切なら宿泊料も低廉であったりしながら、その割に繁昌している様子もなく、世間に知れていないのを見ると、お礼心に大いに宣伝してやりたくなるのが人情であって、自分の如き文筆を業とするものが故意にそれを隠していたのでは、折角の心づくしが何の甲斐もないことになり、好意を仇で返すようなものであるから、内心甚だ済まなく思う時もあるが、それでも私はこの方針を曲げないことにしているのである。

 

近頃の私は、電車や汽車の音響が完全に聞こえない場所へ行って、せめて一日だけでもゆっくり寝ころんだり考えたりしてみたいという要求をしばしば感ずる。そうしてそのため旅行慾が起るのであるが、そう云う条件に当てはまる場所も追い追い無くなって行くことと思う。試みに地図をひろげてみても分る通り、狭くて細長い国土の上へ縦横に鉄道網が敷き廻されて、それが年々、血管の先が幾すじにも岐れて行くように隅々へまで伸びて行って、寸土も余さない状態であってみれば、汽笛の音が聞こえない山間幽谷の範囲と云うものは次第にちじめられるばかりである。そこへ持って来て、鉄道省、観光局、ツーリスト・ビュウローあたりの宣伝機関が抜け目なく客を誘引するから、名所と云う名所が皆その土地の特色を失い、都会の延長になって行く。私は山登りは嫌いであるから日本アルプスの繁昌する様子を見たことはないが、元来山のよさと云うものは、人界を超越した雄大な感じ、人間に依って汚されざる清い空気を呼吸する点にあるのではないか。古人の万化[ばんか]に暝合すると云い、天地の悠久を悟ると云い、神仙合一の境に遊ぶと云うのが、山登りの趣味なのではないか。もしそうであるなら、今日の信越地方のように宣伝されてしまったのでは、山岳としての意義を失う訳である。昔、小島烏水氏などが始めてあの地方の雪谿の美を説いた時分には、富士山は誰も彼も行く俗悪な山であるからと云うので、あの方面を開拓することが勧められたのであったが、今ではあの地方の方が、富士山以上に俗悪であるかも知れない。小屋と云えば済むものをヒュッテと云ったり、東京市中にでもあるような「何々荘」などと云う旅館が出来たりすることから想像しても、人界を超越するどころではなくて、最も人間臭い場所、田舎でありながら都会文化の尖端を行く土地柄になっているらしい。それ故ほんとうに山の霊気に触れようとする人々、昔の大峰の行者のような、敬虔な心を以て山登りを志す人々は、成るべく世間に知られていない山岳地帯を物色するより仕方がないが、そうするにはどうするかと云えば、先ず地図をひろげてみて鉄道の網の目の比較的粗い部分に眼を付け、その範囲内にある山や谷を求める。勿論そんな所にある山は名山でもないから、峰の高さにおいて、谷の深さにおいて、展望の雄大さ、風光の秀麗さにおいて、アルプス地方の山々には及ぶべくもないであろうが、山高きが故に貴からず、人間臭や都会臭のないのを以て貴しとすれば、そう云う凡山凡水の方が却って山らしい趣があり、俗塵にまみれた心や腸を洗ってくれるかも知れない。で、このことは山の場合に限らないので、たとえば先に云った蛍の名所、桜や梅の名所、温泉、海水浴場等、すべて天下に著聞[ちよぶん]している一流の土地は皆多少とも荒らされてしまっているものとあきらめをつけて、二流三流の場所を漁って歩く方が、遥かに旅行や遊覧の目的に添うのである。

 

そう云う訳でしみじみとした侘びしい旅の味を楽しむ者には、宣伝機関の発達はむしろ邪魔になるのであるが、時に依ってはこれがために便利なこともないではない。と云うのは、いったい近頃は海よりも山の方が流行る、昔は暑いと云っては海、寒いと云っては海、胸に病があると云っては海へ行ったものだけれども、昨今は、夏は山登り、冬はスキー、肺病患者にも紫外光線などと云って、とかく山が持て囃[はや]される。私なんぞはつい眼と鼻の甲子園のスタンドさえ覗いたことかないくらいで、スポーツのことには一向疎[うと]いのであるが、冬になると各地のスキー場の積雪の量が日々沿線の各駅に貼り出されるし、ラジオでも放送されると云う有様を見てはどうしてあんなことにそんな大騒ぎをする値打ちがあるのかと、訝[あや]しまざるを得ないのである。が、あんな風に放送局や鉄道省までが力瘤を入れて提灯持ちをするところから、冬の休みにどこへ行こうかと迷っている人達が、皆雪の積った山の方へ浚って行かれる。つまり、当節の宣伝は騒々しいお客を一と纏めにして一つの地方へ掃き寄せてくれる働きがある。先達[せんだつて]も和気律次郎君の話に、近来紀州の白浜が大々的の宣伝をやり出した結果、別府がすっかりさびれてしまって弱っていると云うことであったが、もともとわれわれは、新し物好きの、一時のお調子に乗り易い国民であるから、或る一箇所が鉦[かね]や太鼓でジャンジャン囃し立てると、どッとその方へ集まって、余所[よそ]の土地はお留守になってしまう。そこで、そのコツを呑み込んで、宣伝の裏を掻くようにする。一方へ人が集まった隙にその反対の方面に行く、と云う風に心がけると、面白い旅をすることがある。どこそことはっきり指摘するのは趣意に反するから云わないが、大体において、瀬戸内海の沿岸や島々などは、そう云う意味で閑却されている地方ではないか。冬あの辺へ行ってみると、実にぽかぽかして暖かい。阪神地方も暖かいけれども、あの辺はまたひとしお暖かく、一月の末には早やちらほらと梅が咲き初めるし、蓬[よもぎ]を摘んで草餅を作ったりなどしている。そのくせ、避寒の客たちは白浜や別府や熱海などへ集まってしまっているから、どこの宿屋もひっそり閑として、まことに悠々たるものである。私は花見が大好きで春はどうしても絢爛たる花盛りの景色を見ないと、春の気分をたんのうしないのであるが、これにもやはり今のコツで行く。如才のない鉄道省では、毎年山々の雪が融けてスキーが駄目になった時分からぽつぽつ花の宣伝を始め、四月中は花見列車を出すのは勿論、次の日曜にはどこが見頃とかどこが七分咲きとか一々掲示をしてくれるので、静かな花見をしたい者は、そう云う場所を避けて廻ればよいことになる。それと云うのが、何も花を見るのには名所の花に限ったことはないのであって、見事に咲いたただ一本の桜があれば、その木陰に幔幕を張り、重詰めを開いて、心のどかに楽しむことが出来るからである。そうしてそう云う心がけになれば汽車や電車の御厄介にならずとも、たとえば私が住んでいるこの精道村の裏山あたりの誰も気が付かない谷あいや台地などに、却って恰好な花と場所とを見出すことがあるからである。