「ヒッピー・ファッションの衝撃 - 横尾忠則」死なないつもり から

 

「ヒッピー・ファッションの衝撃 - 横尾忠則」死なないつもり から

子どもの頃は、山とか川とか屋外の生活ばかりで、おしゃれには無頓着でした。僕が着るものを意識しはじめたのは、社会人になってから。服装には社会的礼節があるし、もちろんお財布との相談なので、おしゃれとまではいかない。最低限の身だしなみは必要だと考えていました。
二〇歳で神戸新聞社に入って、デザイナーという仕事に就きました。職業柄というのか、ある程度、相手に説得力を持たせるような格好をしていないといけないと感じるようになった。服装でデザインという仕事に対する信頼が測られてしまう気がしたのです。周囲のデザイナーもそれなりにおしゃれをしていたけれど、お互いお金がなくてたいしたことはできません。
おしゃれは映画から学ぶことが多かった。ファッション誌はあったけれど、今みたいなものではなくて、割合経済的に余裕のある人を対象にしたものだった気がします。
一九五〇年代半ば過ぎですね。ちょうど石原裕次郎がデビューした頃です。彼によって、おしゃれが初めて社会的に認知されるようになったんじゃないでしょうか。
石原慎太郎の『太陽の季節』が五五年に発表され話題となり、翌年に弟の裕次郎主演で映画になる。時代の風俗として、太陽族が流行します。髪は慎太郎刈り、ボートネックのTシャツやアロハシャツに白いスラックス、靴はボートシューズ(デッキシューズ)。湘南でヨットで遊ぶ若者たちがモデルです。
海に面していたこともあって、神戸の若者たちにもそういうおしゃれがはやりました。僕も石原裕次郎のスタイルに憧れたものです。
東京に出てきたのが六〇年。安保の年ですね。社会全体ではこれというおしゃれが確立されていなかった時代で、なんとなくアイビー風かなっていう。アイビーはアメリカの大学生のスタイルで、三つボタンのスーツ、ボタンダウンのシャツ、靴は紐のないローファーが代表的で、太陽族とアイビーが重なりあっていく感じでした。
日本デザインセンターでは、流行に敏感で、おしゃれな人が多かった。六四、五年にみゆき族が銀座に現れると、我々もそれをすぐコピーしたわけです。六〇年代後半になると、若者たちは政治の季節に入っていって、ベトナム戦争反対、安保反対がスローガン。その一方でアングラ文化も生まれていきます。僕は政治的人間ではなくて文化系だし、アングラの仕事をしていたので、そちらに親近感を持っていました。
ビートルズの出現も大きなインパクトでした。僕は外国の雑誌に載っていた彼らの写真を見て、これはすごいなと感じました。何より四人のルックスのハーモニーが抜群。音楽ではなくてルックスに感動して、切り抜いて自宅の壁にその写真を貼っていたくらいです。僕の評価の基準は、まず外面です。外面に内面が反映しているはずです。
ロックは日本にも入ってきて、グループサウンズが人気を集めます。人気グループではスパダースがファッション面でも注目されていましたが、ちょっと中途半端。長髪ではなくて整った髪型だし、アイビー的要素が強かった。まだヒッピーの時代は来ていなかったんです。

 

一九六七年に初めてニューヨークに行って、びっくり仰天しました。若者がみんなヒッピーの格好をしているんです。これは僕も、と早々に豹変して、アイビーを捨てていきなりヒッピー・スタイル。街でもヒッピーらしい服装を必死で買い求め、行動など彼らのライフスタイルを真似るのに一生懸命でした。
具体的にいうと、長髪にひげ面、ジーンズにワークシャツやTシャツ、靴はブーツが多かった。ジーンズは裾が広がったラッパ風のもの(ベルボトム)で、インドやアフガニスタンの民族衣装も取り入れていました。
スーツにネクタイといった、社会が決めた服を着ることが全部否定されて、ファッションが個人の思想や哲学を主張するものに変わっていく。それ以後、僕は僕なりのファッションをやろうと、一大変化を起こしたのです。
ヒッピー・ファッションは、非ファッション、反ファッションというか、ファッションを否定するものでした。つまり、お金をかけて飾り立てるといった既成のファッションに対して、ノーと行ったのです。その時初めて、ファッションに思想が導入されたわけです。

ヒッピーの文化、ヒッピー・カルチャーはインドなど東洋哲学を背景にして、内面と外面を一つにするということを主張していました。着るもの、食べるものといったライフスタイルが思想を表し、思想を学ぶことで自然とそういうライフスタイルになる。さらに、その精神的な解放をより強めるためにドラッグが使われ、サイケデリック・カルチャーも生まれました。
ヒッピー文化にはインド的なものが強く流れていたので、僕もその知識を吸収し、インド的なもの、宇宙的なものに目覚めていきました。
ヒッピー・レボリューションが一番盛りあがった四カ月をアメリカで過ごし帰国すると、日本ではそんな動きはまるでなくて、まだアイビーをやっている!と驚きました。インターネットの時代には想像もできないことだけど、当時はそのくらい遅れていたんです。
その後も毎年のようにニューヨークに行きました。ロンドン・ファッション
というもっと洗練された若者向けのデザインが流行した時には、僕はロンドンまで行って、まるで洋服屋さんを始められるくらいにショップで山盛りの服を買ってきた。その格好を見たニューヨークの若いヒッピーたちから、「お前、それをどこで買ったんだ?」と道で声をかけられたりして。
それまで東洋人として西洋人に劣等感を持っていたのが、これには優越感を覚えましたね。これで彼らよりかっこよくなったと妙な自信になりました。ニューヨークでは、本職だったデザインなんかそっちのけで、ファッションとロックとポップアートでしたね。
七〇年に大阪で万国博覧会があって、そのあたりから何かが変わったと感じます。何かはよくわからないけれど、僕の中からアングラ意識が完全に消えてしまった。というのも、アングラがレディ・メイドになったからです。マイナーからメジャーに志向していく感覚だったのかもしれない。アングラ演劇は人気が出て定着していったけれど、僕は彼らとは付き合わなくなっていきました。

 

あの時代のファッションは、思想と密接に結びついていまさた。ビートルズはその根底にインド思想を持ち込み、それと同時に、思想をビジュアルで表現するということをやりました。それまで言語的・論理的だった思想は、若者たちの感性にに訴えかけるものになりファッションや音楽といった言葉を超えた形で表現するものに変わっていったのです。
そのことで、大人の社会も若者の考え方や行動を無視でなくなって、厳しい批判も起きた。でも、僕はヒッピー・カルチャーを知って、社会に評価されない生き方もありだと思えるようになったし、むしろ批判の対象にならないと、面白さを感じないくらいでした。社会から否定されるアナーキーな生き方、それが心地よかったんです。
ヒッピー・ファッションの世界に飛び込んだために、僕は思想らしきものを授かったと言うことができます。それまではそんなことを考えたこともなかったのに、いろいろと考えざるを得なくなった。それは学生運動の人たちの政治的な思想とは全然違う、別の思想でした。どちらも当時はレボリューションという言葉を使っていたけれど、ヒッピーのそれは社会や政治を無視している、無関心の思想みたいなものでした。僕もその無関心の思想の一端を舐めた部分もあると思います。思想を超えたものです。
けれども、しばらくするとヒッピーのムーブメントは沈静化し、ジーンズにTシャツのスタイルも定着して、着ているもので主張する時代は終わります。そのあたりで、僕のファッションライフも終わっていくんです。そして思想の必要性もなくなりました。思想を捨てたことで自由を手にしたんです。