(巻三十六)熱中も夢中のときも過ぎて秋(鷹羽狩行)

(巻三十六)熱中も夢中のときも過ぎて秋(鷹羽狩行)

2月11日土曜日

好天温暖無風のお出掛け日和。

ネジの外れた炊飯器の後釜を買いに細君と駅前の家電店へ出かけた。家電の前に細君は一階の証明写真機でマイナンバー・カード申請用の顔写真を撮ったが、やはりこんな筈ではないと出来映えに相当不満があるようだ。

家電店の炊飯器コーナーは思ったより多種の品揃えだ。50種を超えていた。価格は一万円から十万円までだ。50種あっても価格帯で絞ると10種くらいか?壊れた使用中の炊飯器が7年前に二万五千円だったそうで、胸算用ではプラス一万円のようだった。重量が500グラム増えたが、結局同じメーカーの同じような後釜になった。私もそうだが、細君は私以上に機種、機能、操作法の変化を嫌うのである。お値段は税込三万八千円でまあ予算通りか。6キロの釜を抱えてタクシーで帰宅。

炊飯器秋が深むと置かれあり(手塚美佐)

コンビニで買ってきたサンドウィッチで昼飯。一息入れて、散歩。歩幅を意識して図書館(返却)、稲荷、銀座商店街、都住、図書館(貸出)、帰宅と歩いた。稲荷ではコンちゃんの歓迎を受ける。銀座商店街では蕎麦屋寿々喜でざるそばで一合。今日は鍋焼きの陽気ではない。都住のクロちゃん、サンちゃん共に不在。

図書館には永井路子氏の追悼コーナーが出来ていた。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。知らないうちに死んでいたい。どうしても生きていたいなんて気持ちははなからなかったが、怖くてここまできた。まだ怖いから知らないうちに逝ってしまいたい。

I'm not afraid of death; I don't just want to be there when it happens. Woody Allen

永井さんは知らないうちに逝ったようですが、あの歳までは待てない。

唐招提寺との歳月 - 永井路子」ベスト・エッセイ2006 から

を再読した。

冬蜂の死にどころなく歩きけり(村上鬼城)

唐招提寺との歳月 - 永井路子」ベスト・エッセイ2006 から

を再読した。

「歴史の顔」を見てしまった!

もの書きとして稀有な好機に恵まれたのは一九七〇年。唐招提寺講堂の解体調査の現場での体験を、私は一生忘れないだろう。

ある小冊子の執筆依頼で、かねて大ファンだったこの寺を訪れたのは春先だったろうか。知人に頼んで奈良文化財研究所(当時)の坪井清足氏に紹介してもらい、さらに坪井氏から現場主任の石井典孝氏を訪ねるよう助言をいただいた。

「いま全面解体調査中ですよ」

と言われて、まあ、と驚く程度の素人ファンにすぎない私だった。果たせるかな、あの優雅な講堂の姿はなく、大きな覆屋[おおいや]の中に、古材が積みあげられ、土まみれの礎石が露出していた。そのころ建替中だった平城宮内の東朝集殿[ひがしちようしゆうでん]を移築したのがこの講堂、ということぐらいは知っていたが、さらに礎石から少し離れて、整然と敷きつめられた小石の列があった。

「これは雨落溝[あめおちみぞ]です。門の跡もありまして」

石井氏にそう伺ったときが「歴史の顔」を見た瞬間だった。 

小冊子にもそのことを書いたが、以来、より唐招提寺に吸いよせられていくうち、さまざまの謎に突きあたった。

歴史ものを書くとき、史料を読む、年表を再検討する、系図を作り直すなどは基礎作業の手始めである。面倒でしょう、といってくださる方もあるが、これがなかなか楽しい。思いがけない発見があるからだ。

そこで浮かびあがってきたことの一つは、鑑真の来日を大歓迎した聖武天皇が、遺詔によって彼を宗教省の大臣ともいうべき大僧都に任じるが、聖武の死後まもなく解任されたこと。さらに鑑真は来日以来、戒律伝授の最高指導者(戒和上)だったが、それも解任されたこと。いずれも老齢をいたわって、という理由だが、明らかな敬遠である。聖武の死を機に歴史は大転換し、鑑真も退隠を余儀なくされたのだ。

この鑑真に与えられたのが右京の新田部親王の旧宅 - これが現在の唐招提寺の地なのだが、実は新田部の死は二十数年も前のことで、残っているのは二、三の小屋。唐招提寺など影も形もなかった。

しかも問題の地たった。ここに「歴史の顔」を重ねてみると、そこに仕切りの堀があり、明らかに土地は二分されている。とすれば、ここにいたのは?

鑑真研究の第一人者、安藤更生氏は、新田部の第二子道祖[ふなど]王の可能性を指摘しておられる。氏は一九七〇年亡くなられているから、遺跡は目にされておられないと思うのだが、その炯眼[けいがん]に敬服しつつ、道祖の身辺を見つめなおせば、彼は凄惨な政争の犠牲となって非業の死を遂げている。この地が没収されたとすれば二、三の小屋しか残っていなかったのも当然で、この禍々[まがまが]しい空地を鑑真は与えられたのだ。

これが、命を賭して来日した高僧への好遇といえるだろうか。そのころから、私は渡来以後の鑑真の周辺を書きたいと思い始めた。

それにしても、残りのもう一方 - 現在の金堂の地は?くわしいことは省略するが、ここに道祖の兄、塩焼[しおやき]王が住んでいたらしく、彼もまたその後の政争の渦の中で殺されている。

もっとも、その死は鑑真遷化の一年後だから、金堂の創建を見ることなく鑑真は世を去ったのではないか......。

鑑真の死後、残された弟子たちは、いよいよ苦境に立たされる。そこにあるのは東朝集殿を移した講堂のみ。鑑真に与えられていた供養料もなくなり、このままでは滅亡しかない。

唯一の道は、寺として形をととのえ、官の援助をうける定額[じょうがく]寺として生きのこること。そのためには、まず金堂を造らねば......。苦悩の選択の上での金堂創建は、塩焼の没後、なお住んでいたかもしれない妻の不破内親王(聖武の皇女)が追放された七六九年以後?そう思い定めて拙作『氷輪』を執筆したのは一九七九年。「歴史の顔」を見てから十年近く経っている。

このとき、私は金堂について、「講堂のように解体修理が行われ、地下遺構をたしかめた上でなければ」建立の時期はわからないが......と書いている。

たしかに一種の賭ではあった。幸い文学賞も受賞したものの、この問題提起には賛成論は聞かれず、依然として金堂創建は鑑真の生前などという説が幅をきかせていた。

ところが、二〇〇〇年から金堂修理のための解体作業が始まると、なぜか、研究者の中から、金堂創建は七七〇年を遡らない、という説が浮上してきた。有力な味方が出現したわけだが、それよりも、私の願いは、

「金堂下の歴史の顔が見られないものか」

ということだった。が、今回は地下遺構の調査は行わないという。僅かに見せていただいたのは、金堂の端にある地下遺構の柱の穴だけ。ひどく落胆していたら、昨年思いがけない調査結果が発表された。年輪測定法という新しい科学的方法で、金堂の屋根を支える地垂木[じだるき]の一部が七八一年のものと判明したのだ。従って落成は七七〇年をさらに下ることが確定した。

過日寺を訪れて、この地垂木の、乾いた、ほのかなぬくもりに触れさせていただいたことによって、どうやら私の「歴史の顔」を探[たず]ねる旅も終ったようである。