(巻三十六)名月を上げて庭師の帰りけり(東洸陽)

(巻三十六)名月を上げて庭師の帰りけり(東洸陽)

2月16日木曜日

今朝は零度を切ったとのことだ。だが、風はなく陽射しもあり鳥が囀ずっている。昨日までとはちがう朝だ。

朝家事は掃き掃除、洗濯、布団干し、細君の書類作成補助などで11時ころまで家事従事。

昼飯喰って、ゴミ出しに集積場まで出たが風は冷たい。一息入れて、考えて、呑む気になって家を出た。時間調整を兼ねてクロちゃんを訪ねたが不在。

図書館で返却し、書架をうろついて時間調整して3時10分ころ「さと村」に入店。先客は後期者らしきが一人。今日は淡路の兄貴とイケメン君のコンビだ。兄貴から「今年になって初めてですよね?よろしくお願いいたします」と挨拶された。あたしゃ今日で3回目だがスレ違いだった。「佐渡の真」という日本酒と煮込みとタン・カシラの塩、各2本を注文しているところに前期者が入店。と、続いて男女一組入店。私が注文した焼き物が出てくるまでに女二人組と男女一組と後期者一人が入店し、“コの字”のカウンタ-に客が揃ったが、こんなに客を見たのは初めてだ。飲み物も料理もいろんな注文が入り、それに素早く対応していくのを観戦しながら呑むのは球場でダブル・プレーに喝采を送りながら呑むの気分だ。プレーの中には失策もある。女二人組がトマト・サワーを頼んだところをイケメン君がレモン・サワーを出してバツ。処置に困ったレモン・サワーを後期者が引き取った。イケメンが「私は皆さんに助けられて生きています‼」と大きく呟く。夫婦ではないと思われる男女組二組の微妙な生態観察も面白いのだが、すでに3杯もやったので退散した。モツ焼きは旨いが続くと飽きる。週一でも飽きる。欲望は充足されてしまうと……か?

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。叶えて下さいませ。

大寒や見舞に行けば死んでをり(高浜虚子)

長くてもこれくらいの入院で終わりたいものだ。

今週は欲望とか満足とかの御高説に接したので、

「満足を引きのばす欲望 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

を読み返してみた。やはり食欲よりは性欲で説いていただいた方がより分かりやすい。前技はあっても後技なし。前期までで後期なし。

哲学も科学も寒きくさめ哉(寺田寅彦)

「満足を引きのばす欲望 - 山崎正和」中公文庫 柔らかい個人主義の誕生 から

さて、人間の欲望のうちで、もっとも基本的なものは物質的欲望であらうが、まづこれを観察しただけでも、ただちに、欲望が無限だといふ先入見が誤りであることが理解できる。

人間のとっての最大の不幸は、もちろん、この物質的欲望さへ満足されないことであるが、そのつぎの不幸は、欲望が無限であることではなくて、それがあまりにも簡単に満足されてしまふことである。食物をむさぼる人にとって、何よりの悲しみは胃袋の容量に限度があり、食物の美味にもかかはわらず、一定度の分量を越えては喰べられない、といふ事実であらう。それどころか、しばしば人間の官能の喜びは逆説的な構造を示すものであって、欲望が満たされるにつれて快楽そのものが逓減し、つひには苦痛にまで変質してしまふといふことは、広く知られてゐる。いはば、物質的な欲望の満足は、それがまだ成就されてゐないあひだだけ成立し、完全に成就された瞬間に消滅するといふ、きはめて皮肉な構造によって人間を翻弄する。かつてプラトンが、人間の世俗的な快楽はけっして純粋な快楽ではありえず、必ず苦痛をうちに含んで成立すると考へたのは、けだし、この意味においてだったのである。

このことは、いひかへれば、物質的な消費が行動としていささか特殊な構造を持ち、一定の目的を志向しながら、けっしてその実現を求めない、といふことを意味してゐる。この場合、目的とは、もちろん、なんらかのものを消費することであるが、欲望はそれをめざしながら、しかし、同時にそれにいたる過程をできるだけ引きのばさうとする。ここでは、いはば目的と過程の意味が逆転するのであって、ものの消耗という目的は、むしろ、消耗の過程を楽しむための手段の地位に置かれるのである。

食欲についていへば、それは、最大量の食物を最短時間に消耗しようとするのではなく、むしろ逆に、より多く楽しむために、少量の食物を最大の時間をかけて消耗しようとする。さうするのは、人間がものの乏しさを知ってゐるからではなくて、食欲そのものの乏しさを知ってゐるからであって、その証拠に、あらゆる食事の贅沢はこの奇妙な吝嗇[りんしょく]から生まれてきた、と見ることができる。われわれは、一片の牛肉を楽しむために、たんにその調理に時間をかけるだけでなく、それを給仕人の手をわづらはせて食卓に飾らせ、おごそかな手つきで切りわけておもむろに口に運ぶことを喜びとする。そのために、われわれは、さらに手数のかかる食器や食堂の調度を整へ、煩雑な作法と食卓の会話に気を配り、食前酒の選択から食後の音楽まで、ありとある演劇的儀式な創造に心を労してゐる。その極限ともいふべき形態が、先にも触れた日本の「茶の湯」の儀式であって、これはただひとつまみの緑茶の粉を消耗するために、おびただしい時間と儀礼と手仕事のわざを費やすのである。

別のいひ方をするならば、人間には物質的欲望のうへにもうひとつの欲望があって、これがたえず物質的欲望の有限性を嘆き、それを引きのばすことのなかにみづからの満足を求めてゐる、と見ることもできる。これは、われわれの欲望についての欲望と呼んでもよいし、いっそ精神的欲望と呼んでもよいものであるが、たしかに、この第二の欲望は満足の限界なしにどこまでも膨張する性質を持っている。しかし、これは、物質的欲望と別にそれ自体の消費を行ふものではなく、つねに物質的な消費にともなって、そこでのものの消費を遅らせることに満足を見いださうとする。「わざは長し、生は短し」、というのがこの欲望の主張であって、それにニーチェ的な生命力の蕩尽とは正反対に、所詮は瞬時に終る生命の燃焼にさからひ、あらゆるわざを使ってそれをせきとめようと試みるのである。