「祖先がきた生野へ - 立松和平」エッセイ集旅暮らし から

 

「祖先がきた生野へ - 立松和平」エッセイ集旅暮らし から

一族の記憶というものがある。祖母から聞いた子供の頃の記憶とは、点である。その点を結びつけていくと、ぼんやりした絵が浮かび上がってくる。私にとって播但[ばんたん]線の旅は、記憶の彼方から浮かび上がってくる一族の歴史に向かって一歩を進めたということであった。
栃木県の足尾銅山で坑夫の組頭をやっていた母方の一族の来歴を私がなんとなく聞いたのは、ずっと幼い頃であったろうが、そのことを意識に上にのぼらせたのは大学生の頃である。関西の方からきた、白い塀のまわりを小川が流れている立派な家に住んでいたというのだ。当時は足尾銅山も閉山のほうに傾いていき、飯場制度もとうになくなっていて、私の一族はほとんど宇都宮に暮らしていた。そんな私たちには「関西」「白い塀の立派な家」などという言葉が、異郷の響きを持っていたのである。
菩提寺に永代供養をし、多少はあった山林などは役場に寄附をしてきたということだ。母までは本籍地というと、生野の住所を使っていた。母はそれをそらんじてくれた。「兵庫県朝来郡生野町奥銀谷一四一五番地」というのであった。生野に最後までいた人は、私の曾祖父にあたる片山市右衛門で、その親が寅蔵である。
年寄りの話では、片山市右衛門がごく若い頃、仲間と三人で足尾にやってきたということだ。ぼんやりした伝承と、確かな史実とが入りまじった話になる。祖母が話すと、広島県福山市の阿伏兎[あぶと]観音を拝んで、鞆[とも]村から船に乗ってきたと、まるで神話のような物語になる。福山市には確かに阿伏兎観音があり、どうやら子育て観音として信仰を集めている。そこまではわかるのだが、生野ら播但線でつながっている姫路と、足尾の方向とは、福山はまったく逆である。
祖母は片山寅蔵とその一統は生野の鉱夫から出たトンネル堀りで、若い衆を連れて全国を飛びまわっていたのだという。つまり、トンネルを掘りながら足尾にやってきたということだが、つじつまがあうようなあわないような、よくわからない話になる。
私は姫路にいって播但線に乗り、思い切って生野にいった。私は二十代で、まだ職業的な小説家というわけではなかったが、自分のルーツに関わる小説をいつか書こうという思いがあったのである。生野は、私が子供の頃からいってよく知っている足尾と似た雰囲気がある。鉱山街特有のにおいがするのだ。
生野銀山は日本で有数の銀山で、平安時代の大同二(八〇七)年に開坑されたと伝えられる。銀本位制の上方[かみがた]では、最も重要な鉱山である。十六世紀には織田信長豊臣秀吉に支配され、徳川幕府は直轄領として代官所を置いた。明治時代になってからもヨーロッパより真っ先にお雇い外国人をいれ、最先端の技術を導入したところだ。日本の鉱山で最も早く黒色火薬で採掘したのは生野銀山で、最も早くダイナマイトを使ったのが足尾銅山なのである。
生野銀山は昭和四十八(一九七三)年三月に閉山になった。足尾銅山も同じ年の二月二十八日である。鉱山は鉱脈を掘りつくすと、閉山になる。それが宿命である。生野は閉山の翌年に「シルバー生野」を立ち上げ、坑内観光をはじめる。足尾でもやや遅れるのだが、坑内観光をする。両鉱山は同じような歴史をたどっているのだ。

生野では本籍地はすぐにわかり、大用寺という菩提寺もじきにわかった。大用寺には片山市右衛門の名で立派な石塔が寄進してあり、永代供養もすませてあった。過去帳を見せてもらうと、確かに祖先たちの名前がある。また「シルバー生野」の展示場には、坑夫取立免状に片山寅蔵の名を幾つも見ることができる。この免状には立会いの親分衆の名も列記してあり、そこに列しているのである。
私の祖先の足跡は、生野にはっきりと刻まれていたのだ。これは歌がいようもない事実である。生野の人にすれば、突然栃木県から若いものがやってきて、あれこれ調べ、不思議な感じであったろう。私はその時から少しずつ調査をし、最終的に長篇小説『恩寵の谷』を仕上げたのは、あれから二十五年ほども後のことだ。
明治十年代だと推定されるのだが、関東地方や東北地方には鉱山開発ブームのようなことが起こる。その流れに乗っていた一人の人物が、古河鉱業(現・古河機械金属株式会社)の創始者古河市兵衛である。古河市兵衛はまず越後の草倉鉱山、次いで足尾銅山の再開発に手を染める。富国強兵、殖産興業の国策にのっていたのである。そのためには熟練した鉱山労働者が大量に必要で、関西にスカウトにいったのだと考えられる。
片山市右衛門は新しい土地で一旗揚げようと、青雲の志を持ったのかもしれない。その時生野を旅立った他の二人の名前もわかっている。戸張丑之助[とばりうしのすけ]、生田[いくた]松蔵である。この三人は坑夫の組頭となり、それぞれ飯場を興したので、その名が後世に伝わっているのである。足尾には坑口が、本山、通洞[つうどう]、小滝と三つある。通洞の五号飯場取締りに、戸張丑之助がなった。小滝に、生田松蔵が生野組をつくった。片山市右衛門は通洞に銀谷[かなや]組を興した。明治時代の親分衆の名簿を見ると、この三人が写真などとともにのっている。生野には口銀谷[くちかなや]と奥銀谷[おくかなや]という地名があり、坑口があるのは奥銀谷のほうである。こうして坑夫の組に出身地の名をつけるのは、故郷に対する誇りからであろう。足尾の組の名前を見ると、越後組や八王子組があり、全国各地の地名がつけられている。坑夫は全国から集まったのだということがわかる。
ちなみに生野銀山が閉山になった時には、地下百八十メートルまで掘り進み、坑道の延べの長さは三百五十キロあったという。これは長い時代の手堀りが多いだろうから、よくも掘りに彫ったりという感じがする。足尾銅山の坑道の延べの長さは、千二百三十四キロである。鉄道の長さでいえば青森から新幹線の米原駅までの長さということだが、あの山の中で糸巻きに糸を巻きとったようにして坑道が掘られていったとしても、私にはどうもイメージが鮮明には浮かばない。
坑夫は友子[ともこ]同盟のもとで、一種のコスモポリタン的な存在であった。三年三月十日間の修業期間を修業して、親分兄弟分等一統立会いのもとに坑夫取立式をすませると、坑夫取立免状が渡される。坑夫取立免状を持っていけば、全国どこの鉱山にもいくことができた。一宿一飯の恩誼にあずかることもできれば、希望すれば働くこともできた。幕藩制度の国境さえも越えていたのだ。
鉱山の入口には必ず友子交際所があり、そこで厳しい作法にのっとった仁義を切る。この仁義によって、それがどれほどの坑夫なのかすぐにわかったのである。怪しいとにらまれると、監視つきで調べられ、親山に問いあわせ、偽者だとわかると逆さ吊りの半殺しにされたりした。また禁止事項がたくさんあり、親分子分の仁義を破った者は、免許は停止になり、厳しい制裁を受けた。
そのかわりに、相互扶助の共済組合の役割もになっていた。冠婚葬祭には見舞金をやり取りし、ヨロケと呼ばれる珪肺にかかったり、事故で怪我をしたり落命したりすると、奉願帳が全国の鉱山にまわり、一人米一升を提出した。それがしだいにお金になり、共済組合となっていく。
友子同盟のもとで全国どの鉱山でも自由に往来できたというのが、坑夫の自由さである。私の曾祖父片山市右衛門は仲間二人とともに、坑夫取立免状を持って生野銀山から外部の広い世界へと旅立っていった。それが後に私が書いた長篇小説『恩寵の谷』の骨格である。