(巻三十六)裏道のこの静けさよ寒四郎(松本久美恵)

(巻三十六)裏道のこの静けさよ寒四郎(松本久美恵)

2月20日月曜日

曇天。寒さが少し緩んだ朝だ。

細君は眼科に出かけたので、留守に音声を出してイタリアンを観た。まだ反応はするが興奮せず。歳かマンネリか。

色の欲はつかに残り春の雪(森澄雄)

細君外出のときは、パック赤飯と即席麺の昼食となる。今日の即席麺は賞味期限最短の担々麺で、それなりに旨し。

昼飯を喰って、一息入れて、散歩に出かけた。何となくカレーが食べたくなり、松屋に入り券売機のメニューを見たが、ハンバーグカレーではちっと重すぎるので止めにした。松屋の向かいの大阪王将が月曜日なのに店を開いていたのでそちらに入った。年末以来である。2時過ぎで客も他に一人だけだ。注文を取りにきたおねえさんに黒ホッピーと餃子をお願いした。このおねえさん、マスクをしているから半分見えないがいい雰囲気の顔立ちに思える。今日が初仕事のようでインテリ顔の店長の教えを受けながらも一生懸命にやっている。一生懸命なのは分かるが、この道は初めてのようでホッピーの栓の抜き方も教わっていた。別にホッピーの栓が特殊なわけではないからビールの栓も抜いたことがなかったのだろう。中をお代わりしたが、店長付き添いで入れていた。お代は1090円。半年間で200円値上がりか!

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

早寝早起きは健康によいということになっているが、9時に寝て3時に目覚めて寝床で鬱々としているのでは心の健康には良くない。

《老年の一日は文字通り夜の長い一日である。闇の中にいろいろな妄念が起っては消え、いろんな形の魑魅魍魎が駆けまわる。寝そびれた夜や、まだ暗い明けがた目を覚ましていての苦しみについて、中村光夫氏が書いていたことがあるが、それは老年に足を踏み入れてみて始めて分ることだ。》

『「ちかごろの感想(一部抜書) - 山本健吉」』

の中で書いている。

ということで、昨晩はいつも通りに寝床に入ったが照明を消さずに頑張ってみた。が、どうも10時までに眠りに落ちてしまったらしい。夜中の何時かにムクムク起き上がってトイレにいき、その時に消灯したようだ。それでも効果があったようで6時くらいまで眠れた。

朝寝して時代遅れの予感かな(中西恒弘)

「ちかごろの感想(一部抜書) - 山本健吉」日本の名随筆34老 から

老年の居場所とは、もっと安らかなものだと思っていた。だがこれはどうやら私の見込違いであったようである。老年とは、その人の生涯における心の錯乱の極北なのである。このことは、自分で老年に達してみて、初めて納得することが出来た。

老年に平安があるとは、私はどうしてそう信じていたのだろう。たぶん昔の人の老年期の生活を、青年期、壮年期の人生の波濤をくぐり抜けた果ての、到り着いた安らぎの地と、漠然と思いこんでいたのであろう。そう思わせるものが、昔の人の記録にはあった。たとえば鴎外の「ぢいさんばあさん」には、それまで何のよいこともなかったような老夫婦が、七十歳を過ぎて到達した隠居所での平和な生活が、次のように書かれている。

「二人の生活はいかにも隠居らしい。気楽な生活である。爺さんは眼鏡を掛けて本を読む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀剣に打粉を打つて拭く。体を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の真似をして、其隙には爺いさんの傍に来て団扇であふぐ。もう時候がそろそろ暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあふぐうちに、爺いさんは読みさした本を置いて話をし出す。二人はさも楽しさうに話すのである。」

老年期の隠居所での生活は、一般的に言ってほぼこのようなイメージをもって、私たちには描かれていた。人生の終着駅が、もしそのような安らぎをもたらさないものであったなら、人びとにとって、生きる目標とは何なのか。それは生きがいの喪失になりかねないのではないか。

隠居制度が失われ、老人福祉制度がまだ形をなさないという谷間に、長くなった老年期の生き方が問われている。もっとも、このような制度が備わっていたからといって、本当の老年期の安らぎがえられるとは、考えない方がよいかも知れない。あの「ぢいさんばあさん」のような生活は、如何にも気楽かも知れないが、それは第三者の言うことで、当人たちの内面に立ち入ってみれば、どのような黒い妄念が渦巻いているかも知れない。またスウェーデンにおけるような完備した老人福祉制度の国で、老人たちは生活の安定が保証されていればいるほど、深い孤独地獄に陥り、若者は若者であまりにも井然と整えられ、あまりにも細部にわたって予定された生涯のコースに対して、造反を試みているという。老年期における生活の安定が、生の目標となりうることに、青年は懐疑的である。

老人の苦しみは、青年期には予想もしないところに現れてくる。長い老年期とは、言わば夜の長さだが、老年の一日は文字通り夜の長い一日である。闇の中にいろいろな妄念が起っては消え、いろんな形の魑魅魍魎が駆けまわる。寝そびれた夜や、まだ暗い明けがた目を覚ましていての苦しみについて、中村光夫氏が書いていたことがあるが、それは老年に足を踏み入れてみて始めて分ることだ。モンテーニュが、老人は過去の想い出にふけり、想像と夢想の中で自分を楽しませ、老年の悲しみを策をめぐらしてまぎらわす、と言っている。それが楽しい想像の域に止まっていればよいが、それは多くの場合、苦しい妄念に急変する。