「現実を生きるための - 若林正恭」文春文庫ナナメの夕暮れ から

 

「現実を生きるための - 若林正恭」文春文庫ナナメの夕暮れ から

このあいだ収録で原宿のカフェのVTRを見ていた。その店はカピバラがモチーフになっていて、店内ではカピバラのかぶり物をしながら飲食をするというコンセプトだった。メニューのパンケーキの表面にカピバラの顔がソースで描かれている。ロケに行ったタレントがカピバラの顔にナイフとフォークを入れるとスタジオに「かわいそ~」と悲鳴が響く。このお店の客は自分でパンケーキを頼んでおいて「かわいい~」と言って、食べるときに「かわいそ~」と言って、食べて「おいしい~」と言っていた。
昔の自分なら、バカげていると鼻で笑ってお終いだった。今は「なるほど、なるほど」だ。カピバラを描くことで、楽しくなる。ただただパンケーキを食べるよりは楽しい(人もいる)のだろう。
普通へのデコレーション。店を出た後、女子会のリーダーは言うだろう、「楽しかったね。また来ようね」。
ぼくの親父は熱狂的な阪神ファンだった。阪神戦がテレビであるときは、食卓に歓喜の声と怒号が飛び交っていた。物心がつき始めたとき、親父に聞いた。
阪神が勝つことと、お父さんとどう関係があるの?」
親父は不機嫌な顔になり一言「黙ってろ」と言った。当時は子どもだったので単純な興味で聞いてしまったのだが、言うべきではないことを言った罪悪感はあった。阪神の勝利や敗北は、親父の生活サイクルに活気をもたらしていた。活気とは脳内の興奮である。勝ち負けによって心身は刺激を受けて、日々の活力となっていただろう。
特典つきのアイドルのCDを何枚も買って、借金が膨らみ、自己破産する人がいるらしい。それは自分が不幸になっているから、ファンタジーの使い方を間違えているパターン。もったいない。特典つきのアイドルのCDを一枚買うことで仕事やプライベートへのモチベーションやエネルギーが増す。その力によって、アイドルのCDに投資した額よりも、自分の日常生活において高い価値を得る。中長期的に見ても幸福度が増す。こういった流れがファンタジーの上手な使い方ではないだろうか?
元本割れをしてはダメだ。

占いなんかでもそう。お金を払って占いをすることで、その投資額(占いの料金)を上回る価値が日常生活にもたらされるならいいが、それに依存して例えば壺やら石やらを大量に買ってマイナスになってはいけない。純粋で正直で弱い人の不安を利用して食い潰す悪質なビジネスは今も昔もなくならない。強い信仰を持っている人が比較的少ない日本では、現実を生きるためのファンタジーを供給するビジネスがとても盛んだ。それが「娯楽」と呼ばれる範囲のものなら結構なことだが、「娯楽」の範囲を超えて「依存」になって自分の生活の質が落ちたら台無しだ。
本当はファンタジーを抜きに現実を生きられたら、申し分のないことだろう。だが、人間はファンタジーを抜きに現実だけを直視しながら生きられるような強い生き物だろうか?
若い頃、ぼくはリアルに生きることを目指していた。この世界と自分の真実だけを芯で捉えて生きてやろうと息巻いていた。それがリアルだと信じていた。そんなことは無理だし、ぼくがかつて「真実」と呼んでいたものだって時と場合によって簡単に姿を変える、有って無いようなものだった。それならば、今のぼくはファンタジーを選ぶ。使命というファンタジーを作り出し、それを自分に信じ込ませる。自分の仕事には意味があると言って聞かせて、虚無気味の世界にカピバラの顔を描く。趣味や娯楽を振り回し、ただ生まれて死ぬという事象にデコレーションしまくる。事実はあまりにも残酷で、あまりにも美しくて、まともに向き合うと疲れてしまうから、真実はたまにぐらいが丁度いい。
「身の程を知れ」という言葉がある。確かに身の程を知ることで得することもあるだろう。だが、身の程をしりすぎて夜眠れない人はどうだろう?損をしている。ぼくは「身の程」なんて最後まで知るつもりはない。何かに酔って、現実の輪郭を少しだけぼやけさせ続けながら生きる。
この現実を生きるために、ファンタジー、何をどのくらい選ぶか。