(巻三十六)晩秋の損得もなき立呑屋(星野高士)

(巻三十六)晩秋の損得もなき立呑屋(星野高士)

3月17日金曜日

今日は雨になるぞと予告するような朝の空模様だ。朝家事は特に無し。

今週もBBCの番組をチェックしているが、ダウンロードの仕様が128kbps-higher qualityと64kbps-lower qualityの二つあり選択できた。専ら会話を聴いているので64で十分だ。ところが今週は各番組とも128だけになり選択の余地なしである。となるとICレコーダーの容量を倍食うわけで、4GBの媒体に30分番組なら200本残せたところが半分しか詰め込めないことになる。もし64を止めることにされたら、ICに残す番組の取捨がより辛くなる。別に媒体に残さなくてもBBCアーカイブに残されているからいつでも聞けるし、落とせるのだが、逝くまでの間を枕元に置いたレコーダーからお経の代わりに耳に流し込みながら瞑目したいのである。だから50時間分でもよいのだし、理解できていなくてもよいのである。何れにしてもICレコーダーに残しておきたい。

イヤホンに音の通はぬ冬籠り(滝川直広)

昼飯喰って、一息入れて、早目に散歩に出かけた。今日は亀中の卒業式があったようだ。クロちゃんを訪ねてから

生協に寄り角ハイほかを買って短めで帰宅し、アイロンがけを致した。

願い事-涅槃寂滅、酔死です。

死は春の空の渚に游ぶべし(石原八束)

今日は、

https://www.bbc.co.uk/programmes/m0010pv0

に挑んだ。学者の割に巻き舌で早口で分かりにくい人だ。まあオイオイになんとかなるだろう。ならなくてもそれはそれで構わない。

再読は昨日からの流れで、

「平均顔 - 鹿島茂」文春文庫 セーラー服とエッフェル塔 から

を読み返した。

マフラーや話せば長き顔の傷(英龍子)

「平均顔 - 鹿島茂」文春文庫 セーラー服とエッフェル塔 から

「十人並」という言葉がある。普通、とりたてて美人でもないが、さりとてひどい不美人でもない、平均的な容姿の女性について用いられる。私もそう思っていた。

ところが、いまから二十六年前、女子大の教師になったとき、この言葉に隠されたもう一つの意味を発見した。

女子大の教室に入ったとき、男の教師であれば真っ先に美人の学生のほうに目がいくのは当然である。そして、このクラスには美人が多いとか少ないという判定を下すのもだれもがやることである。私も当時は若かったからこの例外ではなかった。瞬間的にクラスの美人含有度を弾き出して楽しんでいたのである。

しかし、そのうちに、ある否定しがたい事実に気づいた。美人の数は、クラスの人数に正比例するということである。二十人のクラスよりは三十人のクラスのほうが、また三十人よりは五十人のクラスのほうが、美人の数は多い。そして、その割合は、ほぼ十人に一人なのである。

この事実に突き当たったとき、私は不思議なことを考えた。「十人並」というのは平均的な容姿ということではなく、じつは、十人に一人は美人がいるという言外の意味を含んでいるのではないだろうか?

ただ、このときには、十人に一人の美人は「例外」的存在であると見なしていたので、そこから一歩も思考が先に進まなかったのであるが、コンピューターによる顔の平均値というものを知ってから、自分の発想はかなり当たっていたのではないかと思いかえすようになった。コンピューターによる顔の平均値とは例えば次のようなものである。

「養老 ところで、東京理科大学原島文雄先生の仕事はご存じですか。コンピューターの中で、一〇〇人分の顔の画像を重ねていく。すると、これが美男美女になるんです。

仲 重ねると平均的な顔になるという話ですね。

養老 平均顔が美男美女になるというのは、直感的にはおかしい感じがするんです。美人とか美男は希少だと思われているから、プラスの重みが与えられているはずです。それが実は平均的なものだとしたら、なぜプラスの重み付けがされるのか、その論理がよくわからない」(『養老孟司・学問の格闘-「人間」をめぐる14人の俊英との論戦』日本経済新聞社)

十人に一人の確率で存在する美人は、例外的なものではなく、じつは十人の平均値としてそこにいたわけなのである。いいかえれば「十人並」なのはその美人のほうだったのだ。私の予感は正しかったのである。

しかし、そうだとすると、養老氏のいうように、平均顔に「なぜプラスの重み付けがなされるのか、その論理がよくわからない」ということになる。どうしてまたわれわれは平均値の容姿に惹かれるのだろうか?

これに対する答えでもっとも一般的なものは、進化的淘汰からする説で、平均的なものに収斂していくほうが種の保存に適しているから、われわれは平均的な容姿(つまり美男美女)に惹かれるのだと説明する。

「仲 平均顔を好ましく思うのは、生物の場合、特異なものよりもバランスのとれた個体のほうが優れているということと関係があるのではないでしょうか。

養老 そうですね。種を保つという意味では、平均的な性質に収斂していくほうが安定感があります」(同書)

このお二人はかなりソフィスティケイティッドされたものの言い方をされているが、『顔を読む-顔学への招待』(羽田節子・中尾ゆかり訳 大修館書店)の著者レズリー・A・ゼブロウィッツの表現はもっと直截的である。

「このような人[平均的な人]は有害な遺伝的突然変異をもつ可能性が低いのである。顔が集団の平均からいちじるしくかけはなれた人には遺伝的不適応がみられることがあるが、正常な範囲内の顔ならそれが平均に近いかどうかによって適応度が変化することはありそうもない。したがって、正常の範囲内の顔で魅力と平均性がむすびつけられるのは、集団の平均からいちじるしくかけはなれた顔に対する適応嫌悪の過般化を物語っている」

つまり、平均から逸脱する度合いの大きい顔には「遺伝的不適応」、「有害な遺伝的突然変異」の可能性があり、それが本能的に嫌われるというわけである。しかし、ここまではっきり言われてしまうと、けっして平均的とはいいがたい顔の持ち主である私としては、すくなからず不愉快な気持ちになる。「遺伝的不適応」ねえ、そりゃまあ、そうかもしれないけれど......。

ところで、ゼブロウィッツは、ここからさらに進んで、平均的な顔を魅力的なものにしているのはどんな特徴かと問うて、左右対称性とともに「丸み」をあげる。

「平均する顔が多くなるほど、対称性が大きくなるだけではなく、丸みをおびた、角のない顔になる。(中略)平均顔を魅力的にしているのは、典型性そのものよりもむしろ丸みであると思われる」

丸みというのは、骨張っていないということで、必ずしも丸顔ということではない。では、丸みとは、いったいなんの表象なのか?ゼブロウィッツは結論する。丸みとは健康のしるしであり、健康的であるとは若さのことであると。

「若く見えることが平均顔をいっそう魅力的にしていることは察しがつく」

なるほど、平均顔の美男美女は、平均から逸脱した顔よりも若く、健康に見えるから、われわれにとって魅力的に映るのか。進化的淘汰説では、若く健康であるということは、男女とも生殖能力が高いということを意味する。

「若者は一般に高齢者よりも繁殖力が旺盛で健康的なので、この設計によって若々しい顔にたいする好みが生まれたのである。男女ともに年齢を重ねると魅力がおとろえることは、この仮説を考えればうなずける」

若く見えることこそが平均顔の魅力ということで思い出すのは、デズモンド・モリスの説である。モリスは、女の化粧は二十一歳を目指すと指摘している。すなわち、化粧している女性を子細に観察すると、幼い少女は、より自分を年上に、年をとった女性はより若く見せるように工夫するが、その際、化粧によって化けようとするその年齢というのは、いずれも「二十一歳の自分」なのだそうだ。少女は早く二十一歳になるよう老けた化粧をし、反対に年配者は二十一歳に若返る化粧をする。なぜなら、とモリスはいう。二十一歳の女性は一番繁殖能力が強いからだと。

以上の説をひとまとめにすると、われわれが平均顔(美男美女)に惹かれるのは、それが繁殖にもっとも適している肉体であるからということになる。平たくいえば、美男美女というのは、相手に繁殖への誘いをかけるもっとも淫猥な、助平な顔なのである(この部分憎しみがこもっているな)

しかしながら、ここで大きな問題が生じる。たしかに、われわれは、平均顔を、若く健康でもっとも繁殖に適した顔であると判断し、求愛行動を発動させるかもしれない。たが、実際には、平均顔の男女が健康で繁殖力に富んでいるという証拠はどこにもないのである。けっして美人とはいえない女性が、さながら繁殖力の強いウサギのようにたくさんの子供を引き連れていることもあるし、美男には程遠い男が、やたらと女をはらませることもある。逆に、美男美女が子沢山というのはあまり見たことがない。もし、美男美女が繁殖力旺盛なら、その子孫が飛躍的に増えて、美男美女の比率が高くなり、ジェネレーションを経るごとに、人間はより平均顔に近づくはずだ。

ところが、現実はそうはならない。ひとことでいえば、われわれを求愛行動に誘う平均顔への欲求というものは、必ずしもそれに見合った結果を生まないのだ。いや、実際には生んでいるのかもしれないが、われわれに数世代を経た顔ね研究ということは許されていないので、比較検討ができないのである。

しかし、比較検討はできないにしても、ある種の変化が、日本人の顔にあらわれてきていることはたしからしい。どのような変化かというと、これが童顔化現象だという。戦前の日本人の比べて戦後の日本人はあきらかに童顔化している。つまり、戦後の日本人は、美男美女化はしなくとも、顔が大人顔に変化せず、子供のときの童顔のままにとどまっているのである。

これは何を意味するのか?

先のゼブロウィッツによれば、童顔の人は、基本的に赤ん坊の顔の原形を残しているので、純真で率直な印象を与え、だれにでも親しまれ愛されるが、その反面、依存心が強く、指導力に欠け、意志が弱く、信頼感が薄く見られる。

戦前に、もし、こうした童顔タイプの男がいたら、まず軍隊では出世しなかっただろうし、会社でもリーダーの地位にはつけなかっただろう。女性でも、童顔の人は、良妻賢母にはふさわしくないと敬遠されていたことだろう。

ところが軍隊が解体され、会社でも社長を目指すのはアナクロニズムになり、良妻賢母はとうの昔に忘れられた観念と化した戦後社会においては、とりわけこの二十年には、大人顔であることのメリットはすっかり失われてしまっている。もはや人から信頼され、指導力を要求される時代ではないから、大人顔でいる必要はまったくない。

それならば、みんなに親しまれ、愛される童顔であったほうがいい。現代の日本では、童顔のほうが男女ともにはるかに得なのだ。だから、一億総童顔化が始まったのである。美男美女に変わることはできなくとも(整形は除く)、顔を幼いままに保つことは、無意識の働きさえあれば不可能ではないのだ。

この童顔現象はまっさきにテレビにあらわれた。視聴者一億人に親しまれ愛されるには童顔でなければならない。

> かくして、テレビタレントは、男も女も、老人さえもが童顔化した。そして、その影響は、もっとも童顔から遠いはずの政治にも現れた。テレビに頻繁に登場する政治家は強面[こわもて]の大人顔よりも童顔のほうが有利である。三角大福以後、竹下、海部、宮沢、小渕、みんな童顔である。対して大人顔の小沢はいまだに総理になれないでいる。大人顔の聖域は、いまや極道の世界にしか残されていない。

行動心理学では、そうなりたいと願っているとそういう顔になることを「ドリアン・グレイ効果」というらしいが、軍隊を失いテレビを得た戦後の日本人はまさにこの「ドリアン・グレイ効果」で全員が童顔へと雪崩を打って変化しはじめたのである。では、その童顔ばかりの平均値、つまり、美男美女はどうなるかというと、これがアニメ顔なのである。

「仲 平均顔に思春期の顔の要素を加えると、もっと美しくなるそうです。大人の顔より顎が細く、目が相対的に大きくて、ちょうどアニメの主人公みたいなかんじになる」(『養老孟司・学問の格闘』)

世界に冠たるアニメ王国ニッポン、それはまさに潜在的にアニメ顔の戦後型日本人が生んだ必然的結果にほかならない。