「美女という災難 - 有馬稲子」08年版ベスト・エッセイ集 から

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「美女という災難 - 有馬稲子」08年版ベスト・エッセイ集 から

文藝春秋の二月号「昭和の美女」という特集に私の若い頃の写真がでました。二十三歳ころでしょうか。私自身の記憶の中から消えていた写真で、あらまあ、あなた元気だったのと、もう一人の自分に再会したような、不思議な気分を味わいました。
きつい野生的なメークをしていてレンズを軽くにらみつけています。当時山のように撮られた私の写真は、優雅か、お嬢さんか、都会的かでしたから、これはかなり異色の一枚です。このにらみつけるような目をみて、どこで撮ったか思い出しました。
銀座の泰明小学校の前にあった早田雄二さんのスタジオ。当時の写真家にはふたつのタイプがあって、ひとつはきれいだよ、いいよ!!とのせながら撮る秋山庄太郎さんのようなタイプと、それとは正反対の挑発派ともいうべきタイプ。早田雄二さんはまさに後者の代表で、何だそんな顔、それでも女優か、どこを撮れというんだよと悪口雑言、ムカッとさせてパチリと撮るのが名人でした。この燃えるような目は、まさにその焚きつけられた怒りの表情に違いありません。
もうこの年になると臆面もなく言えますが、この頃の私は美女の代表のように言われていました。そんなしあわせなと思われるかも知れませんが、金持ち必ずしも幸せでないように、美女と呼ばれること必ずしも幸せではない。当時の私はこの美女というレッテルがいやでたまらなかったのです。というのも、美女というのは、オードリー・ヘップバーンであり、デボラ・カーのことである。そう固くきめこんでいて、そんな目がぱっちりした人に比べると鏡の中の自分は平凡な顔だちで美女でもなんでもない。「東京暮色」でご一緒させていただいた原節子さん、あのような顔こそが美女だと信じていたからです。有馬稲子を人名事典に書くとすると、この「思い込むと凝り固まって身動きとれなくなり」というのは、まず最初に書かなければなりません。
美女がいやだった理由のもうひとつは、自分の経歴へのコンプレックス、いまでこそタカラヅカというのは、その厳しい訓練で芸能界に素晴らしい人材を提供する難関と認知されていますが、昭和二十八年頃は、まだまだ評価は低く、ただ見目麗しいだけでスターになれる所と思われていた......というより自分でそう思い込んでいたのです。
さあ、そんな世界から演技のいろはも分らないまま、小津安二郎内田吐夢渋谷実など世界的な巨匠が居並ぶ世界に飛び込んだのです。今井正監督の「夜の鼓」では、名優の金子信雄さんを相手に「待って」というセリフを言うだけでNGの山を築き、一日百回も云わされてついに撮影を一週間も止める体たらく。その世界では美女とは演技ができない奴と同義語だったのです。こうして私の美女アレルギーはずっとついて回ることになりました。
美女という評価ではない別の評価を得るにはどうするか-。演技力をつけて芝居のできる役者になるしかない。こうして何と向こう見ずにも民藝の宇野重吉さんの門を叩いて演技派を目指したのです。きっと日本の演劇の神様が、私を美女地獄から救って下さるとでも思ったのでしょう。仕事に限らず二度の結婚を含めて「思考は常に短絡し、向こう見ずで浅慮」これも私の人名事典の説明には不可欠でしょう。
それにしてもこの意外な写真との出会いはいろんな思いを運んでくれました。私がもし私でない顔を持っていたら、どんな人生を歩んだだろう。最近よくそう思います。
下田の海岸で夕暮れ、浜辺に車を停めて、テーブルを出してランプをつけ、海を見ながら食事をしているカップルを見ました。つつましやかな喰べもの飲みもの。二人は本当に自然で穏やかで満ち足りて見えました。その手応えのある幸せを共有さはしている姿をみて、ああ、私にはこんな青春はなかったなとつくづく思いました。
私の一番美しかった時からしごかれ続けて五十年。少しは良い仕事もしたけれど、星の数ほどある選択肢の中で私はねじれてからまった一本を引いてしまったのかな、と思います。今迄私が出演した映画は七十本ばかり。今年いい出会いがあって、あと一本この記録を伸ばすことができそうです。題名は「夢のまにまに」。勿論美貌を買われて出演したわけでは決してありません。それが妙に嬉しくて、時々昔の映画を見ては......美女だなあ......しかし下手だなあ......しかし良い映画だ、などと思っています。