「伝説の雑誌『洋酒天国』(プロローグ) - 小玉武」『洋酒天国』とその時代 から

 

「伝説の雑誌『洋酒天国』(プロローグ) - 小玉武」『洋酒天国』とその時代 から

いまから五十年前、昭和三十一年四月のことである。『洋酒天国』といういささか奇妙なタイトルのPR誌が産声をあげた。たまたまこの年の一月、石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞、その秋に日活が早くも映画化し、弟の裕次郎が端役ながらデビューを飾った。どことなく、世の中が動き始めている気配を感じさせる、そんな時代だった。
いまも話題になることの多い『洋酒天国』さ、寿屋(現・サントリー)のPR誌だった。会社は創刊のねらいについて、「トリスバーで配るマッチ代わりに作りました」と大真面目な口調で説明をしたが、確かに宣伝物の一つであったわけで、この説明は当たっていた。それは、いわばメンズマガジンとして、東京、大阪を中心に全国に展開しつつあった寿屋の洋酒チェーン「トリスバー」の常連に愛読され、すぐに広く知られるようになった。『洋酒天国』は独自の都会的なダンディズムを目指していたが、具体的には以下のようなものだった。

コマーシャル色は徹底的に排除し、香水、西洋骨董、随筆、オツマミ、その他、寿屋製品を除く森羅万象にわたって取材し、下部構造から上部構造、委細にわたらざるはなく、面白くてタメになり、博識とプレイを兼ね、大出版社の雑誌の盲点をつくことに全力を挙げる。(『日々に新たに-サントリー百年誌』)

後年、作家の吉行淳之介は、「創刊号を手にしたとき、凄いヤツがやっているな、と思った。初めは誰がやっていたか知っていたわけじゃないんだ。僕も戦後すぐに『モダン日本』という雑誌を編集していたからね、ぱらぱらと眺めてすぐにピンときた。モダンな感じのする雑誌作りだった」と語ったことがある。
また、総合雑誌中央公論』の名編集長として活躍し、いまは評論家として知られている粕谷一希氏は、『洋酒天国』についてこんなことを話してくれた。「むろん僕も愛読していたけれど、毎号、ドキドキしながらページをひらいたものですよ。飲酒文化をたくみに掘り起こしていて、愉しみながら読んだものだ」と懐かしそうだった。
サラリーマン読者ばかりでなく、吉行、粕谷という雑誌編集には一家言を持つクロウト筋を惹きつけ、感心させた秘密とは何だったのか。
酒場の愉しみ方だけでなく、粋な時間の過ごし方、洋酒雑学やカクテルのレシピについての蘊蓄の競い合い、カウンターでのバーテンダーとやるカード遊びなども欠かせない企画だった。戦後の都会生活の新しい文化の一面がそこにはあった。大げさにいうとアフター・ファイブ、つまり、劇作家の山崎正和氏が後年使うようになった用語「夕方の文化」へ人々の意識を目覚めさせたのだった。

さらに、雑誌づくりのプロだった山口瞳が編集に参加してから、特集「戦後は遠くなりにけり」というような社会派のネタを扱うようになり、誌面はいっそう読み応えのある企画が多くなった。山口瞳は、ドイツ文学者で通人と言われた高橋義孝を生涯を通じて師と仰いでいたが、山口自身の通人ぶりも板についたもので、それまで一度もやったことのなかった一冊全部が「ドリンク・ブック」などという特集に、そのセンスが生かされていた。
開高健から山口瞳への編集長交代は、必ずしも何号からとはっきりしたものではなかったが、昭和三十三年二月発行の第二十二号あたりから実質的な編集長として山口が全面的に関わるようになった。とくにテレビや野球を特集のテーマにして話題を呼んだ。あとで詳しく触れることになるが、山口流の人々の意表をつくコラムや編集後記の奇抜なスタイルに対しても、「どうして、そんなアイデアが湧いてくるのか?」と読者から驚きの声が寄せられた。
ふり返ってみると、創刊号は、トップが木村伊兵衛の写真とエッセイで、題して「パリーの酒場」だった。作家の吉田健一、漫画家の横山隆一など著名な人々が登場しているだけでなく、同時に評判がよかったのが、編集部の手になる〈酔族館〉〈乱反射〉などの奇妙な味のコラムだった。塩マメやイカの燻製ばかりでなく、ウイスキーのサカナになるような軽くて、粋で、少しバタ臭い艶笑小噺、ヌードフォトを載せたヨーテンスコープ(『洋酒天国』のカラーグラビア)も好評だった。『洋酒天国』という誌名は、創刊を決めたときに、経理担当役員だった大川信雄の進言を受けて佐治敬三命名したものである。開高、柳原、坂根という面々が、「専務『天国』というのは安っぽい。もう少し粋でスマートなタイトルでいきましょうよ!」と提案しても頑としてこの誌名にこだわった。いわく付きのタイトルなのである。当時は若き専務であったが、すでに多くの分野で経営の実権を任されていた佐治敬三は、宣伝広報活動の一翼を担うPR誌の誌名はこれ以外にはないと思っていた。佐治は後に、自著として『洋酒天国』と『新洋酒天国』の二冊のエッセイ集を文藝春秋から上梓した。ここにも誌名に対するこだわりが感じられよう。
洋酒天国』を実際に読んだことのある世代は五十代後半から六十代以降の、いわゆる団塊の世代からその上の人々であろう。団塊の世代で、小学校のときに父親が読んでいたのをおぼえているという知人が身近にもいる。私自身は学生時代に六〇年安保を体験した世代だから、高校・大学時代に、この雑誌の全盛期にあたる後半のほとんどを知っていた。さらに奇遇ともいうべき巡り合わせによって、昭和三十七年に寿屋宣伝部に入社するとすぐに編集部の一員となり、兼務ではあったが同三十九年の第六十一号の終刊まで編集に携わることになったのである。