(巻三十六)桜桃の茎をしをりに文庫本(丸谷才一)

(巻三十六)桜桃の茎をしをりに文庫本(丸谷才一)

3月26日日曜日

小雨。朝家事は洗濯。ウォシュレットのフィルターを掃除した細君が試運転をしろという。尻を捲って、座って、試射を受け止めなさい、と云うことだが“おしり”と“ビデ”の両方の試射を受け止めなくてはならない。“おしり”の方はいいのだが“ビデ”はいわゆる“蟻の戸渡り”と云うか、男だからそうは云わないのかもしれないが、要は“玉袋”と“穴”の間に当たる。“蟻の戸渡り”は女性の性感帯だが、そこになま暖かい噴射水が当たると男ではあるが性的快感でビクッとする。

時鳥厠半ばに出かねたり(漱石)

そんな事をした後、小雨のなかを図書館に出かけた。読む物はまだあったが、菓子なども買いたく出かけた。本は外れが多く6冊借りて、うち2冊は直ぐに返却ポストに入れてしまった。帰宅してパラパラと捲って残した4冊のうち2冊は図書館通いのズタ袋に押し込んだ。

昼飯喰って、一息入れて、座椅子に寝ころがって、ヘッドフォンを被ってウトウト。

今日も

https://www.bbc.co.uk/programmes/m001j45m

聴いた。なかなか進まず。

俳壇を届けてくれたが、書き留めた句はなし。

今日も飲まずで4日呑まずに過ごして、寝大福。

願い事-涅槃寂滅、酔死か即死です。

コロッとが願いです。

厠でつながりで、

「三上・三中 - 外山滋比古ちくま文庫 思考の整理学 から

を読み返してみた。

寒き日を書[ふみ]もてはひる厠かな(正岡子規)

「三上・三中 - 外山滋比古ちくま文庫 思考の整理学 から

どういうところでいちばんいい考えが浮ぶか。科挙という国家試験が古くから行われた中国では、そのことが真剣に考えられたのであろう。科挙では文章を綴る能力が試験されたから、われわれがいま考えているよりもはるかに、文章が重視されていた。

このごろ、わが国でも、大学の入試に、小論文を課すところがふえてきた。やはり、きびしい試験で文章力が実際的な影響力をもつようになってきたとしてよいのかもしれない。

すでに前にものべたが、中国の欧陽修という人は一般には三上ということばを残したとして、はなはだ有名である。三上とは、これまた前のくりかえしになるが、馬上、枕上[ちんじよう]、厠上[しじよう]である。

これを見ても、良い考えの生れやすい状況を、常識的に見てやや意外と思われるところにあるとしているのがおもしろい。

馬上は、いまなら、通勤の電車の中、あるいは、クルマの中ということになろうか。電車なら無難だが、考えごとをしながらクルマを運転していては危険かもしるない。昔の馬上ならすこしくらいぼんやりしていても、交通事故になる心配はしなくてもよかっただろう。

まえに、スコットの「くよくよすることはないさ。明日の朝、七時には解決しているよ」ということばを紹介した。スコットのは、ひと晩寝ているうちに、考えが自然に落ちつくところへ落ちついているということである。その間、ずっと“枕上”の状態ではあるが、別に考えようとしているわけではない。

ここでは、むしろ、目をさまして床の中に入っているときに、いいアイディアが浮かんでくることを言っている。それに、夜、床に入ってから眠りにつくまでよりも、朝、目をさまして起き上がるまでの時間の方が効果的らしい。これも前に書いたが、ハルムホルツなガウスが、朝、起床前にすばらしい発見を思いついたというのはそれを裏付けている。

前に忘却のところでも、眠っているあいだに忘れているのだということをのべたが、睡眠に二種類あることがわかってきた。レム(Papid Eye Movement)睡眠と、ノン・レム(Non Rapid Eye

Movement)睡眠である。レム睡眠のときは、体は休息しているけれども、頭ははたらいている。ノン・レム睡眠では逆に、頭が休み、筋肉などはかすかに活動しているといわれる。つまり、睡眠中もレムの間は一種の思考作用が行われている。眠っていても考えごとができるわけである。無意識の思考が、これがたいへんすぐれていり。枕上とは、それをとらえたもので、古人の鋭い観察にもとづく発見と言わなくてはならない。洋の東西を問わず、床の上の考えのすぐれていることに着目しているのは興味ぶかい。

朝、トイレへ入るときに、新聞をもちこんで丹念に読むという人がいる。トイレの中に辞書をおいている人もある。いずれにしても、トイレの中は集中できる。まわりから妨害されることもない。ひとりだけの城にこもっているようなものだ。

その安心感が、頭を自由にするのであろうか。やはり、思いもかけないことが浮かんでくることがすくなくない。ただ、人にこれをあからさまに言うのを、たとえば、馬上、枕上に比べて、はばかることが多いのかもしれない。

ものを考えるには、ほかにすることもなく、ぼんやり、あるいは、是が非でもと、力んでいてはよくない、というのが三上の考え方によって暗示されている。

いくらか拘束されている必要がある。ほかのことをしようにもできない。しかも、いましていることは、とくに心をわずらわすほどのこともない。心は遊んでいる。こういう状態が創造的思考にもっとも適しているのであろう。

このごろ、乗りものの中でものを書いている人をときたま見かけるが、たいていの人はすることもなく、ぼんやりしている。何も書き入れることのない、いわば白い時間である。週刊誌や軽い読みものは、その時間をつぶすための手段にされているが、考えてみれば惜しいことをしているものだ。

前もって、考えかけたことをもち、車中の人となれば、ふと妙案が浮んでこないとも限らない。枕上でも厠上でも同じである。

やはり、前に、“見つめるナベは煮えない”ということわざを出した。三上の状態では、どうしても日常のナベのそばをしばらく離れなくてはならない。それが思考の展開を促進するのであろうか。

心理学者のスリオ(Souriau)は、「発明するためには、ほかのことを考えなければならない」といっている。三上は好むと好まざるとにかかわらず、そのほかのことをしている状態で、したがって、ほかのことを考えるのに便利な状況にある。

クロード・ベルナールという生理・医学者は、「自分の観念をあまりに信頼している人々は発見をするにはあまり適していない」とのべている(以上の二例、アダマール『発明の心理』による)。

三上を唱えた欧陽修は、また、三多ということばも残している。これもよく知られたことばである。

三多とは、看多(多くの本を読むこと)、做多[さた](多く文を作ること)、商量多(多く工夫し、推敲すること)で、文章上達の秘訣三ヵ条である。

これを思考の整理の方法として見ると、別種の意味が生ずる。つまり、まず、本を読んで、情報を集める。それだけでは力にならないから、書いてみる。たくさん書いてみる。そして、こんどは、それに吟味、批判を加える。こうすることによって、知識、思考は純化されるというのである。文章が上達するだけではなく、一般に考えをまとめるプロセスと考えてみてもおもしろい。

この三上、そして三多に対して、三中という状態も思考の形成にに役立つように思われる。さきに、推敲ということばを出したが、この由来が興味ぶかい。昔、唐の詩人、賈島[かとう]が、

鳥宿池辺樹 鳥は宿る池辺の樹

僧敲月下門 僧は敲[たた]く月下の門

という句を考えついた。はじめは「僧は推す」としたのを、再考、「僧は敲く」に改めた。しかし、なお、どちらがよいか判断がつかず、馬上で「推」したり「敲」いたりして考えにふけるうちに、大詩人、韓退之[かんたいし]の行列につき当り、とがめられた。一部始終を打ち明けたところ、韓退之はこれに感じ、ともに考えて「敲」がよい、といったという故事による。

賈島は鞍上、まさに夢中だったのである。さめた頭で考える必要もあるが、ときには、こういう無我夢中で考えることもなくてはならない。

散歩中にいい考えにぶつかることは、古来その例がはなはだ多い。ヨーロッパの思想家には散歩学派がすくなくない。散歩のよいところは、肉体を一定のリズムの中におき、それらが思考に影響する点である。そう言えば、馬上にもリズムがある。

もうひとつ、ものを考えるのによいのが、入浴中である。

ギリシャアルキメデスが、比重の原理を発見したときにユーリーカと叫んだと言われる。伝説によると、入浴中に思いついたことになっている。比重の原理との縁が近すぎるけれども、一般に入浴中は精神も昂揚するようで、浴室で歌をうたいたきなるのはそのあらわれである。思考にとっても血行をさかんにする入浴が悪いはずがない。

以上の三つ、無我夢中、散歩中、入浴中がいい考えの浮かぶいい状態であると考えられる。いずれも、「最中」である。そう言えば、、三上にしても、最中でないことはなあ。

人間、日々、常住坐臥、最中ならざるはなく、そのつもりになれば、いたるところで妙想が得られることになる。