2/2「三上・三中 - 外山滋比古」ちくま文庫 思考の整理学 から

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2/2「三上・三中 - 外山滋比古ちくま文庫 思考の整理学 から
 
このごろ、乗りものの中でものを書いている人をときたま見かけるが、たいていの人はすることもなく、ぼんやりしている。何も書き入れることのない、いわば白い時間である。週刊誌や軽い読みものは、その時間をつぶすための手段にされているが、考えてみれば惜しいことをしているものだ。
前もって、考えかけたことをもち、車中の人となれば、ふと妙案が浮んでこないとも限らない。枕上でも厠上でも同じである。
やはり、前に、“見つめるナベは煮えない”ということわざを出した。三上の状態では、どうしても日常のナベのそばをしばらく離れなくてはならない。それが思考の展開を促進するのであろうか。
心理学者のスリオ(Souriau)は、「発明するためには、ほかのことを考えなければならない」といっている。三上は好むと好まざるとにかかわらず、そのほかのことをしている状態で、したがって、ほかのことを考えるのに便利な状況にある。
クロード・ベルナールという生理・医学者は、「自分の観念をあまりに信頼している人々は発見をするにはあまり適していない」とのべている(以上の二例、アダマール『発明の心理』による)。
三上を唱えた欧陽修は、また、三多ということばも残している。これもよく知られたことばである。
三多とは、看多(多くの本を読むこと)、做多[さた](多く文を作ること)、商量多(多く工夫し、推敲すること)で、文章上達の秘訣三ヵ条である。
これを思考の整理の方法として見ると、別種の意味が生ずる。つまり、まず、本を読んで、情報を集める。それだけでは力にならないから、書いてみる。たくさん書いてみる。そして、こんどは、それに吟味、批判を加える。こうすることによって、知識、思考は純化されるというのである。文章が上達するだけではなく、一般に考えをまとめるプロセスと考えてみてもおもしろい。
この三上、そして三多に対して、三中という状態も思考の形成にに役立つように思われる。さきに、推敲ということばを出したが、この由来が興味ぶかい。昔、唐の詩人、賈島[かとう]が、
鳥宿池辺樹 鳥は宿る池辺の樹
僧敲月下門 僧は敲[たた]く月下の門
という句を考えついた。はじめは「僧は推す」としたのを、再考、「僧は敲く」に改めた。しかし、なお、どちらがよいか判断がつかず、馬上で「推」したり「敲」いたりして考えにふけるうちに、大詩人、韓退之[かんたいし]の行列につき当り、とがめられた。一部始終を打ち明けたところ、韓退之はこれに感じ、ともに考えて「敲」がよい、といったという故事による。
賈島は鞍上、まさに夢中だったのである。さめた頭で考える必要もあるが、ときには、こういう無我夢中で考えることもなくてはならない。
散歩中にいい考えにぶつかることは、古来その例がはなはだ多い。ヨーロッパの思想家には散歩学派がすくなくない。散歩のよいところは、肉体を一定のリズムの中におき、それらが思考に影響する点である。そう言えば、馬上にもリズムがある。
もうひとつ、ものを考えるのによいのが、入浴中である。
ギリシャアルキメデスが、比重の原理を発見したときにユーリーカと叫んだと言われる。伝説によると、入浴中に思いついたことになっている。比重の原理との縁が近すぎるけれども、一般に入浴中は精神も昂揚するようで、浴室で歌をうたいたきなるのはそのあらわれである。思考にとっても血行をさかんにする入浴が悪いはずがない。
以上の三つ、無我夢中、散歩中、入浴中がいい考えの浮かぶいい状態であると考えられる。いずれも、「最中」である。そう言えば、、三上にしても、最中でないことはなあ。
人間、日々、常住坐臥、最中ならざるはなく、そのつもりになれば、いたるところで妙想が得られることになる。