「自らを知れ - 養老孟司」ちくま学芸文庫養老孟司の人間科学講義 から

 

「自らを知れ - 養老孟司ちくま学芸文庫養老孟司の人間科学講義 から

科学は宇宙の起源や星の進化を論じ、物質の基礎をなす単位について語る。ヒトの遺伝子はすでに塩基配列がすべて解読された。われわれはそういう時代に生きている。
それならわれわれが知っていることは、つまりなにか。
自分の脳のなかだけである。われわれが世界について、なにか知っていると思っているとき、それは自分の脳のなかにある「なにか」を指している。脳を消せば、その「なにか」が消えてしまうからである。それだけではない。脳のなかにないものは、その当人にとって、存在しない。私が知っているさまざまな昆虫は、多くの人にとって、まさに「存在しない」のである。
歯が痛いとき、われわれは当然、歯のことを直接に「知っている」と思っている。しかし、実際に知っているのは、脳のなかの知覚に関わる部位の、歯に相当する部分に、歯の痛みに相当する活動が起こっている、ということだけである。なぜなら歯から脳に至る知覚神経を麻酔してやると、もはや歯が痛くなくなる。それどころか、主観的には歯がなくなってしまう。だから歯医者に歯を抜かれても、「なにも感じない」。しかし歯では相変わらず炎症が進行しており、歯に生じている実際の事情は、なんら変化したわけではない。だから「歯が痛い」と思っているとき、「歯に起こっていること」を知っているわけではない。「脳に起こっていること」を知っているだけだ。
右の頭頂葉を含む卒中が起こると、左半身の麻痺とともに、疾病否認[しつぺいひにん]という症状が起こることがある。この場合、患者さんは起こった麻痺を徹底的に認めない。両手でお皿を持ってくださいというと、むろん片手で持つ。左手は動かないからである。左手を添えてくださいというと、添えてあるじゃありませんか、という。両手を叩いてというと、いいほうの右手で手を叩く動作をする。それで手を叩いたと主張する。
この症状を消すのは、簡単である。片耳に冷たい水を注入する。そうすると、数十分のあいだ症状が消失する。このとき、医師が「両手を叩いて音を出してごらん」というと、患者は医師の顔をジロリと見て、「私は左手が麻痺しているんですよ、両手で叩けるわけがないじゃないですか」という。
これはふつうの人でも軽い程度なら始終やることである。私の祖父は自分の娘婿と夜道を歩いていて、光る点をみつけた。祖父はそれを「ヘビの目だ」といった。娘婿が「でも一つしかないじゃないですか」と指摘したら、「あれは片目のヘビだ」といったという。こうした合理化は、左脳の機能だということが、いまではわかっている。右脳の一部が壊れると、左脳の理屈がまったく訂正されない。そこで疾病否認が生じると考えられる。
わるわれは「世界がこういうものだ」と信じているが、それは脳がそう信じているだけである。しかしそうだとわかったからといって、事情がさして変化するわけではない。相変らずの日常生活が続く。しかし、脳が信じているだけだということを知ることは、それでも大切なことである。なぜなら、たかだか一五〇〇グラムの自分の脳が、いわば「勝手に思っている」ことを根拠に、たとえば人を殺していいかという疑問が生じるからである。だから私は、どんな原理主義者にもなれない。まして唯一絶対の神など信じない。なにか神のようなもの、つまりもっと曖昧なものは信じるのだが。
「汝、自らを知れ」とは、ギリシャの神殿に掲げられてあった言葉だという。だからソクラテスは、無知の知を説いた。自分が知っていることは、自分がものを知らないということだけだ、と。
現代人は多くのことを知っていると思っている。それこそ万巻の書があり、ありとあらゆることが論じられているように思われるからである。ではわれわれは自分についてなにを知っているのか。それを考えてみたい。それが「人間科学」の基本である。
われわれが知っている世界は脳のなかだけだ。そういうと、じゃあ脳の外に世界はないのですか、と訊く人がいる。そんなことはわからない。その質問を発するのも脳なら、答えているのも脳なのである。脳のない生物は、そうした質問自体を発しないであろう。質問も答えも脳のなかだ。そういうと、それではグルグル回しじゃないか、と怒る人が多い。われわれの思考がグルグル回しじゃないと、どういう根拠があって信じているのか。考えどういうのは、結局はグルグル回しになるものですよ。そのこと自体を根拠においてものを考えて、なぜいけないのか。
もちろんものごとの順序からいうなら、外の世界があるから、脳ができてきたということになる。脳がその意味ではずいぶん後発の器官だということは、生物の進化を知ればよくわかりことである。ましてヒトの脳に至っては、それが生じてきた時期は、進化の歴史を一年にたとえるなら、大晦日の除夜の鐘が鳴っている時刻にもならない。その脳が、二億年以上を生きてきた熱帯雨林皆伐する。それを危険だと、どうして思わないのか。
幸か不幸か、われわれの脳は外界に向かって開かれている。それは日夜、外の世界からのありとあらゆる情報に接しているだからわれわれの脳は、じつは絶えず変化しているはすである。しかしヒトはどうも自分の変化を認めることを嫌う傾向があるらしい。だから外の世界をできるだけ固定してしまう。それが文明社会、私のいう脳化社会である。そこには脳にあった(と意識が思っている)世界が生じてくる。われわれはそうした世界のただなかに生きている。たまにはそれを反省してみることも、頭の体操くらいにはなるはずである。