「談志最晩年の日々(あとがきにかえて) - 松岡慎太郎」努力とは馬鹿に恵[あた]えた夢である-立川談志 から

 

「談志最晩年の日々(あとがきにかえて) - 松岡慎太郎」努力とは馬鹿に恵[あた]えた夢である-立川談志 から

エッセイ集のあとがきですから、本来は家族が見た立川談志の執筆風景などを話すべきかもしれません。例えばペラ(二〇〇字)の原稿用紙を使っていたとか、wikipediaには「原稿の校正はしない」と書いてあっても実際はゲラをしばしば真っ赤にしていたとか……。
けれどここでは、出版社からの要望もあって、最晩年の談志について少しだけ話すことにします。
談志は二〇〇七年暮れの「伝説の芝浜」の後、〇八年頃から体調がおかしくなり、〇九年になると糖尿病も悪化して、夏以降しばらく休養せざるをえなくなるほど急激に体力が衰えました。あんなにどこへでも歩いて行った人なのに、足元がふらついて、いざ出かけようとしてもマンションの入口でもう一休みするような具合になってしまっていました。同じ病を患っていた弟子の文都さを(故人)によると、糖尿病患者は薬の加減か何かで鬱っぽくなりやすいということでしたが、まさに談志がそれで、ビールを飲んでは「死にたい、死ねない、殺してくれ」が口癖になりました。
心配した私たち家族は入院治療を望みましたが、談志はわがままな患者で、入院しては気に入らずに飛び出すことを二度繰り返し、その後日本医大でようやく落ち着いたのは一〇年一月のことです。酒を断って、症状が劇的に良くなりました。鬱状態からも脱し、看護師さんたちにも優しくなり、公表された日記(DVD「談志が帰ってきた夜」所収)には家族を愛しているとか、心配をかけたとか有難いものだとか、こちらが擽ったくなるようなことを記しています。鬱から針が逆に振れて、ハイになっていたのでしょう。四月には紀伊國屋ホールで「首提灯」を演って、八ヶ月ぶりに高座復帰を果たします。
とはいえ喉の調子は相変わらず悪く、本人も「声に力がないと面白いことを言っても受けない」と言っていましたが、九月にTV「情熱大陸」の企画で、「ぞろぞろ」を赤坂で演ったあたりから、また前向きに落語と取り組む意欲が出てきたように見えました。声がかすれても、抑揚が乏しくても、それでもできる落語があるのではないか、そんな思いでいる様でした。十二月には、よみうりホールで〇七年の「芝浜」の映像を上映する会をやる予定が、突然「自分で演る」と言い出して、「落語チャンチャカチャン」「権兵衛狸」「芝浜」と三席演り、翌一一年も紀伊國屋で「羽団扇」、練馬で「子別れ」、立川で「明烏」、仙台で「金玉医者」「ぞろぞろ」、新百合ヶ丘で「長屋の花見」「蜘蛛駕籠」と落語を演り続けました。志らくさんは、この頃の談志について「愛する落語に一席ずつお別れを言っていた」と表現しています。そういう一面もあったかも知れませんが、私は談志が今の体力でできる新しい落語の形を模索している、まだまだ落語を演るつもりでいると感じていました。まさか三月六日の「蜘蛛駕籠」が最後の高座になるなんて本人は思ってもいなかったでしょう。

少し話が前後しますが、私たち家族は亡くなる前年の十一月に主治医から厳しい告知を受けていました。しかし談志が病状をきちんと理解していたかどうかは疑わしいのです(主治医も気が優しい方ではっきりと伝えず)。あの大震災直後の三月下旬、呼吸がいよいよ苦しくなり、気管切開手術をしました。手術前に、声を失うことになると説明すると、「俺らしくていいヨ」と落ち着いていましたが、治ったらまた声が取り戻せると思っていたのではないかという気がしてなりません。
春が過ぎ夏になって、病は日ごとに篤くなりました。この間、介護に追われながらも家族が一番悩んだのは、お弟子さんたちに談志の状態をどう伝えるかでした。師匠、弟子という関係はむろん親子同然です。命にかかわる病状を知らせないなんてことはありえない。だけど談志のこんな状態を広く知られるのは避けたい。では、直弟子のひとたちだけ伝えればいいのか?近しい関係者にはどうするのか?一度は意を決して、お弟子さんたちを集めようとしたのですが、この時はたちまち「一門が集まる」と情報が外部に漏れて、取りやめました。その後、八月十九日に談志行きつけのバー「美弥」へ一門の方々に集まってもらい、そこへ談志を短時間連れて行きました。ほとんどのお弟子さんたちとはこれが今生の別れとなります。十一月二十一日午後二時二十四分、立川談志は亡くなりました。
闘病で弱ってしまった痛々しい姿を見せるのは忍びなく、家族だけの密葬で送り、後日お別れの会にすることに決めました。葬儀が終わった後で発表するつもりが、それでも死の報はどこからか漏れてしまい、二十三日午後、予定より数時間早く公にしなくてはなりませんでした。
その日からTVで元気だった頃の映像が大量に流され、私たちはずっと衰弱した姿ばかりと向きあってきたものですから、溌剌とした談志のさまざまな映像を見るのは、落語の「堪忍袋」が爆発してウワアアーッとなった時のようで、目が醒めるような気分になったのを覚えています。
あれから、もう三年。むろん喪失感は覚えますが、遺してくれたものが膨大にあって、今もなお一緒に仕事をしている感覚があります。音源、映像、写真、原稿、日記など、ほぼ手を付けられていない状態です。当分、談志と共に仕事を続けることになるのでしょう。
「一番強く記憶に残っている談志師匠の姿は?」と質問をよく受けるのですが、右のような事情で思い出すまでもなく、「特にないです」と答えています。強いて挙げると、例の〇七年の「芝浜」の時、私はホールのロビーであれこれ用事をしていて、モニターの音声だけが聞こえていました。新しい演出の「芝浜」であることは事前に知っていましたが、ハッキリ内容までは聞き取れません。けれど終わった時の拍手がいつもと違いました。言葉で説明するのは難しいですが、心から感動したという拍手なのです。「あ、凄い高座を演った」と直感で分かりました。ところが楽屋へ行くと、談志は昂揚もしておらず笑顔でもなく、あまり喋ろうともしませんでした。出来には満足しているはずなのに、むしろ「これ以上のものはもうできないだろうな、これで俺も一丁上がりかな、芸の神もこんな処か……」と少し困惑したような姿だったことを、今でも時折思い出します。(談)
(立川談志長男・「談志役場」社長)