「渥美清と「男はつらいよ」 - 井上ひさし」ちくま文庫井上ひさしベスト・エッセイ続ひと・ヒト・人 から

 

渥美清と「男はつらいよ」 - 井上ひさしちくま文庫井上ひさしベスト・エッセイ続ひと・ヒト・人 から

男はつらいよ』の車寅次郎の話になりますが、渥美清は天才的な演技者だから何でもござれで、どんな役でも出来るんだと、長い間、錯覚していました。でも、よく考えると、渥美清渥美清に扮したときが一番、面白い。もっと云えば、病気になる前の彼、つまり喧嘩ッ早い暴れん坊で、そのくせおっちょこちょいで気がよくて、すぐにかっとなって洗いざらいまくし立てるが、云っているうちに相手が可哀想になって舌鋒が鈍るというような、そういう自分を演じているときが、もっとも輝くんです。これはほとんど車寅次郎のキャラクターそのものですが、このへんのからくりを発見した山田洋次という映画作家の洞察力には、共同脚本の朝間義隆さんのそれを含めて、すごいものがあります。
渥美清渥美清を演じさせ、その結果、スクリーンに現れた人物像を車寅次郎と名付けるという大仕掛けに加えて、山田さんは様ざまな補強を施しています。まず、『男はつらいよ』は寅次郎の失恋物語ですが、寅さんが失恋するということは、誰かが得恋するわけで、これは同時に恋愛映画にもなっている。失恋、得恋、どちらも強力な物語形式で、うまい設定ですね。
第二に、『男はつらいよ』は、一種の貴種流離譚なんです。私風に定義すると、「貴い家柄に生まれた英雄が、運命の命ずるところによって本郷[ふるさと]を離れて流浪し、幾多の苦難を女性の力など借りて克服し、ついに本郷へ凱旋する」
これが貴種流離譚の物語形式です。この形式は神話や説話の形でどんな国にもあります。じつは寅さんの物語は全部これの裏返し。構造はそのままですが、中味はアベコベ、逆になっている。
「ごく普通の家に生まれた、とくに取り柄もない男が、つまらないことで本郷を離れて流浪し、たいした苦難にも会わないままに、むやみに女性に上[のぼ]せあがり、いっこうに向上もせず、なすところなく本郷に舞い戻り、そこでまた悶着を起こす」
これが『男はつらいよ』の物語形式です。
第三に、兄と妹という物語構造が入り込んでいる。兄から妹への、妹から兄への濃い感情、この形式も強い。
第四にこの物語は道中記、道行き物の体裁をとっていますが、ドン・キホーテしかり弥次喜多しかりで、これまた丈夫な形式なんですね。
つまり古くて安定した物語形式を三つも四つも組み合わせてあるのですから、行き詰まるわけがない。四十八作もつづいたのは、多分こうした頑丈この上ない形式のおかげでしょう。一方で山田洋次監督は、失われかけた美しい海や川、古い町の夕暮れ、人の情け、お芋の煮っころがしといったものを画面一杯に取り込んだ。そのことで、神話や説話の形式を借りたこの物語自体が現代の神話、説話といった色合いを帯び始めました。これはたいへんな大発明だと感服するばかりです。
こういった周到な仕掛けのもとで何が起こったか。わたしは渥美清の私生活については、ほとんど知るところがない。永い付き合いですが、奥さんにお目にかかったこともなければ、お家がどこにあるかも分からない。お子さんが何人おいでかも知らない。そのくせ、車寅次郎についてなら、たいていのことは承知している。何人の女性に失恋したか、そのときの事情はどうであったか。たちどころに答えることができます。つまりいつの間にか渥美清は消えていて、車寅次郎が生きている。これはすごい話ですね。つまり渥美さんは半生かけて実在する自分を消しに消し、かわりに山田洋次さんや朝間義隆さんの知恵をかりながら車寅次郎という戦後最大の架空の人物の中に潜り込むことにみごとに成功したのです。この一世一代の大トリックを成立させるためには、やはり私生活を、そして御家族を他人に見せてはいけなかったんですね。
渥美清さんはこれからもなお、車寅次郎として、新しい神話の主人公として、スクリーンやブラウン管の上で繰り返し繰り返し生き続けるはず。これは役者として望み得る最高の達成でしょう。その意味では、あなたはまことに幸せな役者でした。