(巻三十六)よく喋る妻に天罰杉花粉(前田一草)

(巻三十六)よく喋る妻に天罰杉花粉(前田一草)

4月3日月曜日

晴れにしておくか、と云った朝の天気。朝家事は洗濯で、外干し。

朝飯食品ほかを買いに生協へ行き、往復でトイちゃんにスナックをふるまう。

昼飯は昨晩の残りの鶏を焼いたもの、100グラム以上と竹輪入りスクランブル・エッグ。これに納豆ご飯を食したが、食べ過ぎだ。腹が一杯で眠くなり小一時間寝込む。

散歩に出たが腹がこなれておらず、飲む気にならず。図書館で返却してからクロちゃんは居るかな~と回ってみたら、居た‼

普段の半分くらい歩いて帰宅。腹がもたれる。

英聴は

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3ct3j70

を再聴いたした。このことに関してはそのことの本をよく読んで、Exposure Therapyに勉めている。

一生の花といふ花やがて塵(長谷川櫂)

願い事-涅槃寂滅、酔死か即死。

死ねないから生きている。仕方がない。

無駄喰いをした。ありがたく思わなくてはと、

「ひもじい頃の思い出 - 北杜夫新潮文庫 へそのない本 から

を読み返してみた。

さりながら腹はへりけりやまざくら(東渚)

「ひもじい頃の思い出 - 北杜夫新潮文庫 へそのない本 から

近ごろ、食べものの雑誌がふえた。空腹をみたすためではなく、半ば趣味としての食べものの話が人々の関心を惹いている。食欲というものは人間最大の欲であるが、性欲にもピンからキリまであるように、大きな個人差がある。なにを食べてもおいしがり、かつ微妙な味わいもわかるという人がもっとも幸福といえよう。何でなければダメだというような七面倒な食通になりたいとは私は思わない。

食べることが好きな人は、世の中がどうなろうが、細君が逃げてしまおうが、食物のことかり考えている。そのくらいでなければダメだ。

私の友人から聞いた話だが、その親類に食道楽の男がいた。むかしは金持だったからあなたこなたと食べ歩いていたが、戦争が激し く腹を満たすものにも不足してきた。ところがこの男は、そういう時代にもでき得るかぎりうまいものを食べた。すべてを食べものに賭けていたのである。

彼が豚を食べたいと思う。むろん肉など売っていない。すると彼はさんざ苦労して一頭の小豚を手に入れる。それを食べるのかというとそうではない。せっせとサツマイモを買いだしにゆき、それで小豚を育てだした。当時、田舎まで出かけて買ってきたサツマイモで人々は飢えをしのいでいたので、普通の人なら豚になどやれるものではない。ところが彼はすき腹をかかえ、サツマイモは豚にやり、じっとそれが大きくなるのを待っている。実に辛抱づよいのである。腹がへって目がくらんでも、彼の脳裏にはまるまると肥満した豚からとった最上の

肉片が浮かび、それがジュウジュウ音をたてて脂をしたたらせているさまの幻影が描かれ、どんな空腹にも堪えていられたのにちがいない。

その男は戦後貧乏になってしまい、いろいろな食物が豊富に出まわってきても、それを購うことができなくなった。街を歩けばレストランが軒を並べている。なにせ日本にはありとあらゆる料理がある。フランス料理、ドイツ料理、ロシア料理、モウコ料理、シナ料理、さてはそれらを混合したものが何でもある。そういうレストランの並んだ通りを彼は歩いてゆくが、むろんはいることはできぬ。一軒のショーウインドーの前に立止まると、そこには見るからにおいしそうな本物の見本がでている。すると彼は時間をかけてそれを吟味し、この材料はどういうのであるうか、果たしてどういう焼き方をしているのか、一体どういうソースを使っているのか、などと思いめぐらすのである。そ してその味を想像し、ごくりと唾をのみ、しかし決してうらぶれず、幻想の中の味覚にひたってゆっくりと街を歩いてゆくのだ。

子供のころはいつもおなかが減っていて、何でもおいしかった。近ごろ私は、天ドンを三つほど平らげてしまう健啖家がうらやましくてならぬ。たとえどんな高級な料理を前にしたとて、食欲がなければなんにもならぬ。健康、適度の運動、そして空腹。これがいかなる珍味より前の必要条件である。

といって、私だって昔は沢山食べた。殊に終戦後、信州の高等学校の寮にいたころは、ひどい食糧難と相まって、石ころもマンジュウに見えた。いくら空腹が望ましいとはいっても、それは平和な時代のいささかゼイタクな言い草であって、あんな思いを二度とする気にはなれない。

戦争が終ってのすぐの秋、空腹で眠れぬ夜がしばしばつづいた。本当に腹がすききってしまうと、どうしたって眠れないのである。校庭には畠があったが、即座の用にはあまりふさわしからぬネギしかなかった。しかし、どうしようもないときは私たちはネギを掘りとってきて、ナマのままミソや塩をつけてかじった。できるだけ太い奴を三本ほどバリバリとかじるのである。するとポロポロと涙が出、われながら味けなかった。

翌年の春から、私たちはウマゴヤシ、イヌノフグリなどの野草、小さな蛙などを食べた。これらはいくら空腹といっても常食にはならぬ。買出しに行って、うらなりのカボチャをリュックに入れると、村の小さな子供がニギリメシをオヤツがわりに食べていたりする。正直の話、そのニギリメシを奪って逃げたいと思った。

たまに田舎の知人の家などに招ばれたときには、浅ましいほど沢山食べた。もう一粒のゴハンもはいらぬと思うほど食べ、寮に戻ってくると、コーリャンの雑炊とかトウモロコシのスイトンなどの夕食がとってある。そんなものは人にあげればいいのだが、その頃にはまた腹が減っていて、けっこう自分で食べてしまったりした。まさしく餓鬼である。

一同が集まって、食物の思い出話をすると、あまり高級な料理はでてこなかった。誰もがマンジュウを山のように積みあげて、片端からムシャムシャ食べるというような至極単純な持っていなかったようだ。

当時、私たちは信州の水っぽい農林何号とかいうサツマイモをなんとも おいしいと思って食べたものである。買出しに行ってどこでもことわられてベソをかいたこともあるし、ときに親切なお百姓さんにぶつかって予期以上にわけてもらえたり、イモのシッポだけを集めてふかしたものを庭先で食べてゆけとすすめられたりすると、拝みたくなるくらいであった。どんな時代がきても自分はもう粗食に堪えられる、と私はそのころ考えたものだ。私の叔父に変わり者がいて、戦前の物資の豊富な時代にも、わざとまずいものを食べていた。自分一人だけ麦飯を炊いて食べたり、みんながご馳走を食べているときに香の物だけで食事をすましたりしていた。人間というものはすぐゼイタクになるものだから、こうやって粗食に慣らすことが必要であるというのである。私はイモのシッポをか

> じりながら、その叔父のことを憶いだし、なかなか立派な人だったと考えたりした。

ところが、人間というものは本当にすぐゼイタクになるものである。悪いほうへすぐ慣れてしまう。イモのシッポどころか、どんなふっくらした石焼芋でも、現在私はふむこうともしない。弱ったことである。