(巻三十六)死に顔まで責任もてぬ青芒(岸本マチ子)

(巻三十六)死に顔まで責任もてぬ青芒(岸本マチ子)

4月20日木曜日

曇り。朝家事は洗濯、外干し。特に出来事はなく、ダラダラと過ごす。

昼前に生協に出かけ、トイちゃんを呼ぶと今日は現れた。帰りも待ち構えていてくれた。

昼飯喰って、快調に一息入れて、座椅子で瞑想。3時前から散歩に出かけて、白鳥生協で焼きそば(小)とノンアル。小銭だ溜まってしまったので現金払い。混んでいて3つ開いていたレジに5人ずつくらい並んでいた。配置ミスのような気もちょっとする。

帰りに都住3のクロちゃんを訪ねて遊んでいただく。

英聴は、

https://www.bbc.co.uk/programmes/m001kx9l

を再聴いたす。

冒頭、ゲストのpsychiatrist(精神病医)からpsychiatrist, psychologist, psycho-therapistのちがいの説明があり、更に患者との初期の接触の仕方などが語られている。因果の連鎖を解き明かすとか、ムードの重要性とか、将来というもの範囲の捉え方と鬱の重さとか、患者の発言記録の重要性とか、がなんとか少し聞き取れたところだ。このエピソードは在庫に残して繰返し聴いて理解を深めよう。

願い事-涅槃寂滅、酔死が即死。

日々Cat therapyを受けている。診察料と思えばスナックの二袋など。

で、

「話を聞いてくれるのがいい精神科医なのか - 春日武彦精神科医腹の底で何を考えているか から

など、精神科医の書いたエッセイを読み返した。

花閉づる力の失せてチューリップ(曽我鈴子)

昏睡へ開き切つたるチューリップ(椎名康之)

「話を聞いてくれるのがいい精神科医なのか - 春日武彦精神科医腹の底で何を考えているか から

話を聞いてくれるのがいい精神科医なのか?

神経症の人が初診に来院したので、いつもと同じように診察して一通りの説明を行い、処方についても解説をし、最後に「何か分からないことはありますか」と尋ねてみた。患者は三十過ぎの男性サラリーマンである。すると彼はしみじみとした口調で「先生は優しいんですねえ」と言うのであった。一瞬、わたしは混乱した。彼が嫌味を言っているのではないかと思ったからである。

もしそのサラリーマン氏に向かって、わたしが深い同情を示したり(ことに周囲の無理解について)、彼の訴えに対して「ああ、それはつらかったですよね」などと共感の姿勢をはっきりと見せたのならば、優しいドクターであると判断されても納得がいく。だがわたしは、かなり淡々とした態度で彼に接したのであった。ことさら不親切ではなかったにせよ、素っ気ないと感じられても無理からぬトーンだった筈である。それなのに「優しいんですねえ」と言われたので、彼は腹立ちまぎれにわざとそんな反語的表現をしたのではないかと思ってしまったのである。

いくぶん困惑しながら、「シニカルで愛想がない医者だな、って感じる人のほうが多いみたいなんですけどね」と応じてみた。するとサラリーマン氏が言うには、「だって、ちゃんとわたしの話を遮らずに聞いてくれたし、必要ならば会社の上司にも説明するって言って下さったじゃないですか」。診察料を取っているんだから、それくらいのことはするのが普通と思うのであるが、彼にとってはどうやらそれが誠実かつ心優しい振る舞いと映ったようなのであった。

当たり前のことをして褒められるのは、さして嬉しくない。ただし、少なくとも彼が満足してくれたのだから、その点には医者としての喜びを感じるべきなのだろう。そして、こうした日常診療の一駒に心が弾むか否かが、おそらく開業医に適性があるかどうかの試金石となるだろう。だからわたしが開業しないのは正解なのである。

それにしても、ちゃんと話を聞いてくれた(しかも途中で遮らずに)ことに対しては、患者サイドからはこちらの思った以上に高いポイントが与えられる傾向が窺える。

少なくとも心理学系の学生を対象としたカウンセリング論の教科書を読むと、「傾聴」という言葉が強調されている。読んで字のごとく、耳を傾けて聴く。いや、全身全霊を込めて患者(カウンセリング論においてはクライエントと称する)の話を聴くことが重要であると述べられている。

なるほどこれは確かにその通りであって、どれほど荒唐無稽であろうと、どれほど独り相撲めいた話であろうと、あるいはどれほど語彙が乏しく表現が稚拙であろうと、真剣にそれに耳を傾けてくれる人がいるなら、少なくとも当人は深い孤独感から解き放たれるだろう。これは重要なことであり、人は自分の心の中だけでくよくよと(さもなければ偏執的に)考えていると、思考はいくらでも暴走する。夜中に一人ぼっちで書いた詩や小説を翌朝読み返してみると、大概の場合は顔を赤らめて破り捨てたくなるものであるが、つまり孤独感は心のバランスを狂わせやすい。どちらかといえば思い詰めたあまりに歯止めが利かなくなる方向に傾きやすく、しかも現実のリアリティが介入してこないから、どこまでも加速がつきかねない。朝になれば太陽の光が現実感と分別とをもたらすわけで、つまり良き聴き手であるカウンセラーは夜明けの太陽みたいな役割を果たすことになる。

心を病んだ人は、決して支離滅裂なわけではない。逆に、きわめて論理的なことのほうが多いことはぜひとも強調しておきたい。論理的であることとそれだ真実であること、ないしは現実にマッチすることとは別な話である。わざわざ「ゼノンの逆説」を持ち出さなくとも、現実離れした論理はいくらでもある。日本も核武装して他国から軽視されないように存在感を示すべきだといった主張はそれなりにもっともなところがあるけれど、核武装といった安直な発想に飛びつきたがる精神こそが結局は国力を弱め国民の自尊心を骨抜きにしているのだといった意見もまた説得力がある。どちらの理屈に与[くみ]すべきかの判断に必要なのは、論理をより精緻にすることよりは視野をより広げることだろう。自説の論理性ばかりこだわっていては、たんに依怙地になるだけである。

といった次第で、神経症の人もうつ病の人も統合失調症の人もパーソナリティ障害の人も、みんな自分なりの論理の帰結として、症状(非現実的な結論がもたらす不協和音が心身に反映されたもの。妬みも僻みも自己嫌悪も被害者意識も妄想も、どれも不健康かつ非現実的な結論をもたらす論理である)

> をより深刻なものにしている。自縄自縛の気配があり、そういった悪循環は一人ぼっちで自問自答しているうちは離脱が難しい。

だから精神科医なりカウンセラーのところへ出掛け、自分の悩みを真剣に相談しようとした人は、何よりもその「腰を上げた」という事実において治癒への可能性を携えていることになる。そうしてその態度を賞賛し、孤独感の中で悪循環している思考へ「明け方の光」を与えるべく、医療者はじっと耳を傾けることになる。じっと耳を傾けてもらえた当人は、自分を肯定してもらえた気分になるだろうから、「優しい先生ですね」といった言葉が出てくることもあながち世辞や嫌味ではあるまい。

ただし医療者が肯定しているのは、患者の健全な部分に対してである。独りよがりの発想や、逸脱した思考を肯定しているわけではない。それは修正されるべきだろうけれども、それはそれとしてまずは当人をまるごと受け入れる。そうした態度に戦略がある。

カウンセリングでは、悩みに対していちいち具体的な解決を医療者が与えることはない。個別の悩みにそれぞれ対処していても埒が明かない。目指すのは、患者なりクライエント自身が自分を客観的に眺め、「論理をより精緻にすることよりは視野をより広げること」の重要性に気付き、それを以て人格的に成長することであるという。いやはや人格的に成長するなんてずいぶん大仰な言い回しだが、ちまちまとしたこだわりから脱却せよ、そうすれば心も広がって今までの悩みもアホらしくなってくるさ - そんな論法に近い。人生に行き詰まったときには海を眺めて大声で叫ぶに限る、そんな熱血ドラマのテーゼと大差がないのである、実は。

そういった次第で、カウンセラーはクライエントに語ることを促し、それに耳を澄ます。心の内を喋るだけでクライエントは「せいせいする」ことだろうし、他人に喋るためには事情や経緯を整理しなければならない。そうしたプロセスを通して問題の本質が見えてきたり、独りよがりな態度に気付くことも少なくはあるまい。カウンセラーは基本的に説教も助言も指示も託宣もしない。

では通常の外来で精神科医もカウンセラーと同じく振る舞うのか(ここで言うところのカウンセラーは、医師ではなく心理学科を卒業した臨床心理士などを指している)。世間では大差がないと思われているようだが、実際にはかなり異なる。何よりも、一回の診療に費やす時間が異なる。通常のカウンセリングは一回が四十五分とか一時間である。だが精神科医は、自費診療の特殊なクリニックでもない限り、そんなに長く患者の話を聴いていられない。いくぶんなりとも繁盛している病院ないしクリニックならば、患者一人の診察に割り振られる時間は平均で五分程度であろう。ただし薬のみを定期的にもらいに来るようなケースもあるから、そうした患者(さもなければ家族が代わりに来院することもある)は三分診療どころか九十秒診療となり、それで浮いた時間を「傾聴」へ回すことになる。もっともそういった実状を厚生労働省は理解していないようであるが。

とにかくそんなふうにして生み出した時間を充てても、保険診療で毎回四十五分以上を一人の患者に費やすことは難しい。だからカウンセリングは医者の診察とは別にカウンセラーが自費扱いで、まったく異なるスケジュールで行うといった棲み分けをしている医療機関もある。

てっとり早く言ってしまうなら、精神科医を相手に保険診療でじっくり話を聞いてもらうなんてことは無理なのである。本章の冒頭で述べた患者は、わたしのところへ来る前に、マスコミで有名なあるドクターのところを受診し、繁盛ぶりとは裏腹の性急な診察ぶりに失望していた。さらに、たまたまわたしに時間的余裕があったので、いくぶんなりともゆったりと耳を傾けることができたというだけの話なのであった。だから最初に訪れた著名なドクターが必ずしもいい加減で不誠実とは言い切れまい。

もっとも、短時間でもその範囲内で患者に満足感をもたらす技量を持ってこそ名医であるといった発想も成り立つだろう。自分の話を途中で遮られたと感じさせずにうまく喋り終えさせるようなテクニックがあるとしたら、そのような腕を持ったドクターのところへぜひとも弟子入りしたいものである。