「SNSのマナー - 井上荒野」中公文庫 考えるマナー から

f:id:nprtheeconomistworld:20210211083140j:plain

 

SNSのマナー - 井上荒野」中公文庫 考えるマナー から

SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス。今ならツィッターフェイスブックが人気である。自分の近況を呟いたり綴ったり写真に撮ったりしてネット上に投稿、友人たちに公開するというもの。
フェイスブックには「いいね!」ボタンという機能があり、他人の投稿への感想として押せる仕様になっている。だが、たとえば誰かの訃報が投稿されていた場合に、「残念だね!」ボタンとか「よくないね!」ボタンが必要ではないのか、という意見がある。
これに加えて「それで?」ボタンがあればいいのに、と言っている人がいた。つまり、昨日私はどこそこのおしゃれな店に行った、今日私は有名人の誰々と会った、そのような近況に対して、自分は「それで?」と言いたくなる、と。
たしかに、私は、大いに納得した。あるいは、SNSそのものを「自分は他人と違う存在であることをアピールしたい、自己顕示欲が強いナルシストたちの集まり」として忌み嫌っている人もいて、これにも一理あると思っている。私たちはSNSに、自分の近況のすべてを書くわけではない。楽しい出来事を書くことも、悲しい出来事を書くことも、成功談を書くことも失敗談を書くこともあるが、すべての投稿には「私が書きたいこと」「私が書いてもいいと思っていること」というフィルターがかかっているのだから。
とはいえ、ツィッターフェイスブックも使っていて、ときどき自己顕示している身としては、弁解もしてみたい。人は死ぬのだ。私たちの毎日は、消滅に向かって着々と過ぎていくのだ。私たちに残された日々は、多かれ少なかれかぎられている。そのような宿命を生きているのだとすれば、一日たりとも無駄にはできない。したくない。だから私たちは、SNSに必死に投稿するのではないか。
今日という一日を、私は無駄にはしませんでした。今日もこんなに楽しく有意義に過ごしました、失敗しましたがそのことを打ち明ける余裕はあります、悲しいことを私はこんなふうにちゃんと悲しむことができました、と、世界に向かって宣言するために(もちろん「世界」には自分自身も含まれている)。
それにしても、文章とは正直なものである。投稿には嘘も書けるが、「なんだか真実味がない」感じは伝わってしまう。謙遜して書いても自慢していることはわかってしまう。簡単に言えば、書き手の性質や性格は絶対にあらわれる。文章の上手下手とは無関係に、ツィッターのように百四十字以内という制限ぎがあったとしてもそうなのである。その危険を侵してまで(私を含めて)多くの者がSNSに投稿し続けている、人間というのはかように切ない生き物なのだ。