「苦労の御破算 - 壺井栄」文豪と借金 から

 

「苦労の御破算 - 壺井栄」文豪と借金 から

御破算という言葉をどうしてか私は昔からすきだ。大変気に入っている。幼少時代からあんまり聞きなれてしまって御飯のような親しさになってしまったからかもしれない。しかし御飯といってもこれは赤の御飯だと思う。ついたちだ、赤の御飯でもたこうといった気持ちが御破算に通じる。昨日までの麦飯を忘れることで、明日からつづく麦飯がうまくなりそうな気になる。
私の六十年に近い人生の中での最初の御破算は小学校五年のころだった。借金で首が回らなくなった父母が、いっそ御破算でいこうやと、あっさり家屋敷を手離して借家住いになってしまった、その時だ。辛くて恥かしくて世間に顔むけできない気がしたが、年月と共にそれがよかったと思うようになった。父母の所業を立派だったとはいえないかも知れぬが、捨て身の戦術とでもいうか、そういう血が私の中にも流れているらしく、何かにゆきづまるとそれを思い出し、御破算でいきたくなる。大変に新鮮で身も心も若がえるから不思議だ。御破算なんて昔の人はうまいことをいったものだと今更ながら感心する。
御破算とならんで、もう一つ気に入った言葉に「飛ぶ」というのがある。言葉といってしまっては弱い。ある行動をさしての言葉なのだ。例えば、
「藤兵衛どんの栄さんがゆんべの船で飛んだといや」
という噂が立ったとする。藤兵衛どんの栄という娘が、何事か思いあまって無断家出をしたということなのだ。
「相手はだれじゃ」
「相手は増右衛門の繁治じゃそうな」
ということになると、増右衛門の息子の繁治と、藤兵衛の娘の栄の恋愛がまわりの反対にあい、仕方なく羽を生やして飛んだということになる。藤兵衛の娘の栄は三十三年前までの私だけれど、幸いに私はそんなふうにとばねばならぬようなめぐり合せには出合わなかった。今思うと少々残念なほどだか、飛ぶ前に十露盤[そろばん]を投げ出して御破算にしてしまうようなことは度々あった。それをしらないものが自殺を考えたり心中をしたりするということになるらしい。私の同級生の中にも、家庭のいざこざを苦にして海へとびこんだり、夫婦で自殺をした友だちもある、なぜ「御破算」のできる十露盤をもたなかったかと、友のために口惜しく思う。「飛ぶ」ことは一種の御破算である。それが封建時代の歪んだ希望であったにしろ、人間にも羽を生やすことができるとは、うれしい限りではないか。義理や人情にがんじがらめにされて、それにたえられぬ者のたった一つの生きる道が羽を生やして飛ぶことたったとは。ひとりで飛ぶことのできないものは飛ばしてもらうこともあった。私の姉の一人なども飛ぶに飛べない羽交いじめの中で泣いていた嫁だったのが、あるとき母から、
「どうしてもいやなら、飛べ」とそそのかされて、目がさめたらしかった。

東京へ出てくると、田舎で考えていた御破算などは十露盤にものらないほどの複雑さだった。生活の目度も立たないまま結婚し、家を借りた私たちは、隣り同士で暮らしていた林芙美子さんの夜逃げぶりの堂々さに東京暮らしの中での身の構えようを教えられたように思う。何日も米のない生活、幾月も家賃の払えない暮らしの中で悄気[しよげ]かえっていた私に林さんは同じような貧しさを夜逃げの形で御破算にして、羽を生やして飛んで見せてくれた。夜逃げとは生きる道であったのだ。私が甘っちょろく考えていたような、恋や愛の沙汰ではなかった。私が父母からならったものも甘っちょろけではなかったはずなのに、若気の至りでいつのまにか私は甘く考えていたらしい。私はさっそく林さんにならって昼逃げをした。家賃をためて追い出されたことも度々あった。そんなことに気弱くなれば、人生にさよならをするしかない。生きたければ先ず食わねばならなかったし、食うためには働かねばならなかった。裁縫、あみもの、筆耕の内職で食うや食わずの年月はずい分ながかった。そんなとき、住居をかえることのよろこびは大きい。次の家にはどんなことが待っているか、その期待のためだけでも、住居をかえる必要があった。転々と十四回、ある年には三度も追い立てられて、いつも大八車を借りる引っこし屋と仲よしになったりしながら、十五回目の家に移って、ようやく満足に家賃が払えるところまでこぎつけた。齢五十にして家賃が払えるようになったとは、よくぞ貧乏の方でも見限りもせず根気よくついて回ってくれたものだ。
ところが、人間というものは妙な欲が出てくるらしく、家賃が払えるようになると、自分の家が欲しくなった。あるとき夫は、半ば月賦で家を建てることを友人から聞いてきて、私にはかった。
「じょうだんじゃない。借金をどうして払うのよ!」
私は正面から反対したのだがいつかしら夫唱婦随で賛成していた。
「払えなきゃ何もかもおっぽり出して御破算にすればいいのよ」
私がそういうと、夫は夫で、
「ないほど強いものはないからね」
といった。人間が五十になれば、もう引こし車の後先を引っぱったり押したりは大儀にもなったのかもしれない。
爾来[じらい]十七年、私たちは今の住居に根を下ろしてしまった。ちがった苦労もいろいろあったのだが、それを人は落ちついたという。自分でもそんな気になったりもする。ところが、そうなったらなったでやっぱり別の風も吹くし、時には地もゆれるのだからおもしろい。ただそれが目に見えないだけのことだ。時々私は飛んじゃおかなとむほん気をおこしてはそのことで慰まったりする。
余談になるが、年の暮れに野間賞のお祝いに一しょに出かけた畔柳二美さんが、地味だが新しい、しゃれた着物をきていた。みんなでほめると、彼女口をとがらして、
「あーら、これ、昔もってた訪問着のそめかえですよ」
といった。派手で着られなくなった訪問着を御破算にしたんだなと、ひそかに微笑する私である。すっかり新しい着物になっていた訪問着、そんな具合に、もう一度この人生を御破算にねがえないものかなあ。