「番茶話 - 泉鏡花」岩波文庫 鏡花随筆集 から

「番茶話 - 泉鏡花岩波文庫 鏡花随筆集 から



小石川伝通院には、(鳴かぬ蛙)の伝説がある。おなじ蛙の不思議は、確か諸国に言伝えらるると記憶する。大抵これには昔の名僧の話が伴って居て、いずれも読経の折、誦念[しようねん]の砌[みぎり]に、その喧噪[さわがし]さを憎んで、声を封じたと言うのである。坊さんは偉い。蛙が居ても、騒がしいぞ、と申されて、鳴かせなかったのである。其処へ行くと、今時の作家は恥しい-皆が然[そ]うではあるまいが-番町の私の居るあたりでは犬が吠えても蛙は鳴かない。一度だって贅沢な叱言[こごと]などは言わないばかりか、実は聞きたいのである。勿論叱言を言ったって、蛙の方ではお約束の(面[つら]へ水)だろうけれど、仕事をして居る時の一寸[ちよつと]合方[あいかた]にあっても可[よ]し、唄に……「池の蛙のひそひそ話、聞いて寝る夜の……」と言う寸法も悪くない。……一体大すきなのだが、些[ちつ]とも鳴かない。殆どひと声も聞えないのである。又か、とむかしの名僧のように、お叱りさえなかったら、ここで、番町の七不思議とか称[とな]えて、その一つに数えたいくらいである。が、何も珍しがる事はない。高台だからこの辺には居ないのらしい。-以前、牛込の矢来[やらい]の奥に居た頃は、彼処等[あそこいら]も高台で、蛙が鳴いても、たまに一つ二つに過ぎないのが、もの足りなくって、御苦労千万、向島の三めぐりあたり、小梅の朧月と言うのを、懐中[ふところ]ばかり春寒く痩腕[やせうで]を組みながら、それでものんきに歩いたこともあったっけ。……最[も]う恁[こ]う世の中がせせっこましく、物価が騰貴したのでは、そんな馬鹿な真似はして居られない。しかしこの時節のあの声は、私は思い切れず好きである。処[ところ]で-番町も下六[しもろく]のこの辺だからと云って、石の海月が踊り出したような、石燈籠の化けたような小旦那たちが皆無だとは思われない。一町ばかり、麹町の電車通りの方へ寄った立派な角邸[かどやしき]を横町へ曲がると、其処の大溝[おおどぶ]では、くわッ、くわッ、ころころころころと唄って居る。しかし、月にしろ、暗夜[やみ]にしろ、唯[と]、おも入れで、立って聴くと成ると、三めぐり田圃をうろついて、狐に魅[つま]まれたと思われような時代な事では済まぬ。誰[たれ]に何と怪しまれようも知れないのである。然[さ]らばと言って、一寸[ちよつと]蛙を承[うけたまわ]りまする儀でと、一々町内の差配[さはい]へ断るのでは、木戸銭を払って時鳥[ほととぎす]を見るような殺風景に成る。……と言う隙[ひま]に、何の、清水谷まで行けばだれど、要するに不精なので、家に居ながら聞きたいのが懸値[かけね]のない処である。

里見弴さんが、まだ本家有島さんに居なすった、お知己[ちかづき]の初の頃であった。何かの次手[ついで]に、この話をすると、庭の池にはいくらでも鳴いて居る。……そんなに好きなら、ふんづかまえて上げましょう。背戸[せど]に蓄[か]って御覧なさい、と一向色気のなさそうな、腕白らしいことを言って帰んなすった。-翌日だっけ、御免下さアい、と耄[ぼ]けた声をして音訪[おとず]れた人がある。山内[やまのうち](里見氏本姓)から出ましたが、と言うのを、私が自分で取次いで、ははあ、これだな、白樺を支那鞄と間違えたと言う、名物の爺[とつ]さんは、と頷かれたのが、コップに油紙の蓋[ふた]をしたのに、吃驚[びつくり]したのやら、呆[あき]れたのやら、ぎょっとしたのやら、途方もねえ、と言った面[つら]をしたのやら、手を突張って慌[あわ]てたのやら、目ばかりぱちぱちして縮[すく]んだのやら、五六疋[ぴき]入ったのを届けられた。一筆[ひとふで]添って居る-(お約束のこの連中の、早い処を引っ捉えてお目に掛けます。しかし、どれも面[つら]つきが前座らしい。真打は追って後より。)-私はうまいなと手を拍[う]った。いや、まだコップを片手にして居る。うまい、と膝を叩いた。いや、まだ立ったままで居る。いや何にしろ感心した。
台所から縁側に出て仰山[ぎょうさん]に覗き込む細君を「これ平民の子はそれだから困る……食べものではないよ。」とたしなめて「何[ど]うだい。」と、裸体の音曲師、歌劇[オペラ]の唄い子と言うのを振って見せて、其処で相談をして水盤の座へ……も些[ちっ]と大業[おおぎよう]だけれども、まさか欠擂鉢[かけすりばち]ではない。杜若[かきつばた]を一年[ひととせ]植たが、あの紫のおいらんは、素人手の明り取ぐらいな処では次の年は咲こうとしない。葉ばかり残して駆落[かけおち]をした、泥のままの土鉢がある。……それへ移して、簀[す]の子で蓋をした。
弴さんの厚意だし、声を聞いたら聞分けて、一枚ずつ名でもつけようと思うと、日が暮れてもククとも鳴かない。パチャリと水の音もさせなければ、その晩はまた寂寞[しん]として風さえ吹かない。……馴染なる雀ばかりで夜が明けた。金魚を買った小児[こども]のように、乗[の]しかかって、踞[しやが]んで見ると、逃げたぞ!畜生、唯[ただ]の一匹も、影も形もなかった。
俗に、蟇[ひきがえる]は魔ものだと言う。嘗[かつ]て十何匹、行水盥[たらい]に伏せたのが、一夜の中[うち]に形を消したのは現に知っている。
雨蛙や青蛙が、そんな離れ業はしなかろうと思ったが-勿論、それだけに、蓋も厳重でなしに隙[すき]があったのだろう。

二三日経って、弴さんにこの話をした。丁どその日、同じ白樺の社中で、御存じの名歌集『紅玉[こうぎょく]』の著者木下利玄さんが連立って見えていた。早速小音曲師逃亡[かけおち]の話をすると、木下さんの言わるるには「大方それは、有島さんの池へ帰ったのでしょう。蛙は随分遠くからも旧[もと]の土へ帰って来ます」と言って話された。嘗[かつ]て、木下さんの柏木の邸の、矢張り庭の池の蛙を捉えて、水掻[みずかき]の附元を(紅い絹糸)……と言うので想像すると……御容色[ごきりよう]よしの新夫人のお手伝いがあったらしい。……その紅い糸で、脚に印をつけた幾疋かを、遠く淀橋の方の田の水へ放したが、三日め四日め頃から、気を付けて、もとの池の面[おも]を窺うと、脚に糸を結んだのがちらちら居る。半月ほどの間には、殆ど放した数だけが、戻って居て、皆もみじ袋をはいた娘のようで可憐だった、との事であった。……あとで、何かの書もつで見たのであるが、蛙の名は(かえる)(帰る)の意義だそうである。……これは考証じみと来た。用捨箱[ようしやばこ]、用捨箱としよう。
就[つい]て思うのに、本当か何[ど]うか知らないが、蛙の声は、随分大きく、高いようだけれども、余り遠くては響かぬらしい。有島さんの池は、さしわたし五十間までは離れて居まい。それだのに、私の家までは聞えない。-でんこでんこの遊びではないが、一町ほど遠い遠うい-角邸から響かないのは無論である。
久しい以前だけれど、大塚の火薬庫わき、いまの電車の車庫のあたりに住んで居た時、恰[あたか]も春の末の頃、少々待人があって、その遠くから来る俥[くるま]の音を、広い植木屋の庭に面した、汚い四畳半の肱掛窓[ひじかけまど]に、肱どころか、腰を掛けて、伸[の]し上るようにして、来るのを待って、俥の音に耳を澄ました事がある。昨夜[ゆうべ]も今夜も、夜が更[ふ]けると、コーと響く声が遥に聞える。それが俥の音らしい。尤も護謨輪[ごむわ]などと言う贅沢な時代ではない。近づけばカラカラと輪が鳴るのだったが、いつまでも、唯コーと響く。それが離れも離れた、まっすぐに十四五町遠い、丁ど伝通院前あたりと思う処に聞えては、波の寄るように響いて、颯[さつ]と又汐のひくように消えると、空頼[そらだの]みの胸の汐も寂しく泡に消える時、それを、すだき鳴く蛙の声と知って、果敢[はか]ない中にも可懐[なつかし]さに、不埒[ふらち]な凡夫は、名僧の功力[くりき]を忘れて、所謂、(鳴かぬ蛙)の伝説を思いうかべもしなかった。……その記憶がある。
それさえ-いま思えば、空吹く風であったらしい。
又思出す事がある。故人谷活東[たにかつとう]は、紅葉先生の晩年の準門葉[じゆんもんよう]で、肺病で胸を疼[いた]みつつ、洒々落々[しやしやらくらく]とした江戸ッ児であった。(かつぎゆく三味線箱や時鳥)と言う句を仲の町で血とともに吐いた。この男だから、今では逸事と称して可[よ]いから一寸素破[すっぱ]ぬくが、柳橋が、何処かの、お玉とか云う芸妓[げいしゃ]に岡惚をして、金がないから岡惚だけで、夢中に成って、番傘をまわしながら、雨に濡れて、方々[ほうぼう]蛙を聞いて歩行[ある]いた。-どの蛙も、コタマ!オタマ!と鳴く、と言うのである。同じ男が、或時、小店で遊ぶと、その合方が、夜ふけてから、薄暗い行燈[あんどん]の灯で、幾つも幾つも、あらゆるキルクの香[におい]を嗅ぐ。……あらゆると言って、「これが恵比寿ビールの、これが麒麟ビールの、札幌の黒ビール、香竄[こうざん]葡萄、牛久だわよ。甲斐産です。と、活東の寝た鼻へ押っつけて、だらりと結んだ扱帯[しごき]の間からも出せば、袂にも、懐中[ふところ]にも、懐紙の中にも持って居て、真[しん]に成って、真顔で、目を据えて嗅ぐのが油を舐めるようで凄かったという……友だちは皆知って居る。この話を……或時、弴さんと一所[いっしょ]に見えたことのある志賀さんが聞いて、西洋の小説に、狂気の如く鉛筆を削る奇人があって、女のとは限らない、何でも他人の持ったのを内証で削らないでは我慢が出来ない。魔的に警察に忍び込んで、署長どのの鉛筆の尖[さき]を鋭く針のように削って、ニヤリとしたのがある、と言う談話[はなし]をされた。-不束[ふつつか]で恐れ入るが、小作蒟蒻本の蝋燭を弄[もてあそ]ぶ宿場女郎は、それから思い着いたものである。
書斎の額をねだった時、紅葉先生が、活東子のために(春星池[しゅんせいち])と題されたのを覚えて居る。……春星池活東。活東は蝌蚪[かと]にして、字義(オタマジャクシ)だそうである。

 

玉虫

去年の事である。一雨に、打水に、朝夕濡色[ぬれいろ]の恋しく成る、乾いた7月のはじめであった。……家内が牛込まで用たしがあって、午些[ひるち]と過ぎに家を出たが、三時頃帰って来て、一寸[ちょっと]目を円くして、それはそれは気味の悪いほど美しいものを見ましたと言って、驚いたように次の話をした。
早いもので、先[せん]に 彼処[あすこ]に家の建続いて居た事は私たちでも最[も]う忘れて居る、中六番町の通り市ヶ谷見附まで真直に貫いた広い坂は、昔ながらの帯坂と、三年坂の間にあって、確かまだ極[きま]った名称がないかと思う。……新坂とか、見附の坂とか、勝手に称[とな]えて間に合わせるが、大きな新しい坂である。この坂の上から、遥に小石川の高台の伝通院あたりから、金剛寺坂上、目白へ掛けてまだ余り手の入らない樹木の鬱然とした底に江戸川の水気[すいき]を帯びて薄く粧[よそお]ったのが眺められる。景色は、四季共に爽かな且[か]つ奥床しい風情である。雪景色は特に可[い]い。紫の霞、青い霧、もみじも、花も、月もと数えたい。故々[わざわざ]言うまでもないが、坂の上の一方は二七[にしち]の通りで、一方は広い町を四谷見附の火の見へ抜ける。- 角[かど]の青木堂を左に見て、土の真白に乾いた橘鮨の前を……薄い橙色[オレンジいろ]の涼傘[ひがさ]-束ね髪のかみさんには似合わないが、暑いから何[ど]うも仕方がない- 涼傘で薄雲の、しかし雲のない陽を遮って、いま見附の坂を下りかけると、真日中で、丁ど人通りが途絶えた。……一人や二人はあったろうが、場所が広いし、殆ど影もないから寂寞[ひっそり]して居た。柄を持った手許をスッと潜って、目の前へ、恐らく鼻と並ぶくらいに衝[つ]と鮮かな色彩を見せた虫がある。深く濃い真緑の翼が晃々[きらきら]と光って、緋色の線でちらちらと縫って、裾が金色に輝きつつ、目と目を見合うばかりに宙に立った。思わず、「あら、あら、あら。」と十八九の声を立てたそうである。途端に「綺麗だわ」「綺麗だわ」と言う幼[いとけな]い声を揃えて、女の児[こ]が三人ほど、ばらばらと駈け寄った。「小母[おば]さん頂戴な」「その虫頂戴な」と聞くうちに、虫は、美しい羽を拡げず、静かに、鷹揚[おうよう]に、そして軽く縦に姿を捌いて、水馬[みずすまし]が細波を駈る如く、ツツツと涼傘を、上へ梭[ひ]投げに衝くと思うと、パッと外へそれて飛ぶ。小児[こども]たちと一所に、あらあらと、また言う隙[ひま]に、電柱を空[くう]に伝って、斜上りの高い屋根へ、きらきらきらきらと青く光って輝きつつ、それより日の光に眩しく消えて、忽ち唯一天を、遥に仰いだと言うのである。

大きさは一寸二三分、小さな蝉ぐらいあった、と言う。……しかしその綺麗さは、何[ど]うも思うように言あらわせないなりしく、じれったそうに、家内は些[ち]と逆上[のぼ]せて居た。但[ただ]し蒼くなったのでは厄介だ。私は聞くとともに、直下[すぐした]の三番町と、見附の土手には松並木がある……大方玉虫であろう、と信じながら、その美しい虫は、顔に、その玉虫色笹色に、一寸、口紅をさして居たらしく思って、悚然[ぞっ]とした。 
すぐ翌日であった。がこれは最[も]う些[ちつ]と時間が遅い。女中が晩の買出しに出掛けたのだから四時頃で-しかし真夏の事ゆえ、片蔭が出来たばかり、日盛りと言っても可[い]い。女中の方は、前通りの八百屋へ行くのだったが、下六番町から、通へ出る薬屋の前で、ふと、左斜の通の向側を見ると、其処へ来掛った羅[うすもの]の盛装した若い奥さんの、水浅葱[みずあさぎ]に白を重ねた涼しい涼傘をさしたのが、すらすらと捌く褄[つま]を、縫留められたように、ハタと立留[たちど]まったと思うと、うしろへ、よろよろと退[しさ]りながら、翳[かざ]した涼傘の裡[うち]で「あらあらあらあら。」と言った。すぐ前の、鉢ものの草花屋、綿屋、続いて下駄屋の前から、小児が四五人ばらばらと寄って取巻いた時、袖を落とすように涼傘をはずして、「綺麗だわ、綺麗だわ、綺麗な虫だわ。」と魅せられたように言いつつ、草履をつま立つようにして、大空を高く、目を据えて仰いだのである。通りがかりのものは多勢[おおぜい]あった。女中も、間[あいだ]は離れたが、皆一斉に立留って、陽を仰いだ-と言うのである。私は聞いて、その夫人が、若いうつくしい人だけに、何となく凄かった。

 

赤蜻蛉

一昨年の秋九月-私は不心得で、日記と言うものを認[したた]めた事がないので幾日だか日は覚えて居ないが-彼岸前だっただけは確だから、十五日から二十日頃までの事である。蒸暑かったり、涼し過ぎたり、不順な陽気が、昨日も今日もじとじとと降りくらす霖雨[ながあめ]に、時々野分がどっと添って、あらしのような夜など続いたのが、急に朗[ほがら]かに晴れ渡った朝であった。自慢にも成らぬが叱人[しかりて]もない。……張合のない例の寝坊が朝飯を済ましたあとだから、午前十時半頃だと思う……どんどんと色気なく二階へ上って、やあ、いいお天気だ、有難い。と御礼を言いたいほどの心持で、掃除の済んだ冷[ひや]りとした、東向の縁側へ出ると、向うの邸の桜の葉が玉を洗ったように見えて、早やほんのりと薄紅がさして居る。狭い町に目まぐろしい電線も、銀の糸を曳[ひ]いたようで、樋竹[といだけ]に掛けた蜘蛛の巣も、今朝ばかりは優しく見えて、青い蜘蛛も綺麗らしい。空は朝顔の瑠璃色であった。欄干の前を、赤蜻蛉が飛んで居る。私は大すきだ。色も可し、形も可し……と云ううちにも、この頃の気候が何とも言えないのであろう。しかし珍しい。……酷暑の砌[みぎり]、見ても咽喉[のど]の乾きそうな塩辛蜻蛉が炎天の屋根瓦にこびりついたのさえ、触ると熱い窓の敷居に頬杖して視[なが]めるほど、庭のない家には、どの蜻蛉も訪れる事が少ないのに-よく来たな、と思ううちに、目の前をすっと飛んで行く。行くと、又一つ飛んで居る。飛んで居るのが向うへ行くと、すぐ来て、又欄干の前を飛んで居る。……飛ぶと云うより、スッスッと軽く柔かに浮いて行く。
忽[たちま]ち心着くと、同じ処ばかりではない。縁側から、町の幅一杯に、青い紗[しゃ]に、真紅[しんく]、赤、薄樺[うすかば]の絣[かすり]を透[す]かしたように、一面に飛んで、飛びつつ、すらすらと伸[の]して行く。……前[さき]へ前へ、行くのは、北西[きたにし]の市ヶ谷の方で、あとからあとから、来るのは、東南[ひがしみなみ]の麹町の大通の方からである。数が知れない。道は濡地[ぬれつち]が乾くのが、秋の陽炎[かげろう]のように薄白く揺れつつ、ほんのり立つ。低く行くのは、その影をうけて色が濃い。上に飛ぶのは、陽の光に色が淡[うす]い。下行く群は、真綿の松葉をちらちらと引き、上を行く群は、白銀[しろがね]の針をきらきらと翻[ひるがえ]す……際限[かぎり]なく、それが通る。珊瑚が散って、不知火を澄切った 水に鏤[ちりば]めたようである。

私は身を翻[かえ]して、裏窓の障子を開けた。ここで、一寸恥を言わねば理の聞えない迷信がある。私は表二階の空を眺めて、その足で直に裏窓を覗くのを不断から憚るのである。何故かと言うに、それを行[や]った日に限って、不思議に雷[らい]が鳴るからである。勿論、何も不思議はない。空模様が怪しくって、何[ど]うも、ごろごろと来そうだと思うと、可恐[こわ]いもの見たさで、悪いと知った一方は日光、一方は甲州、両方を一時に覗かずには居られないからで。-隣村で空臼[からうす]を磨[す]るほどの音がすればしたで、慌しく起[た]って両方の空を窺わないでは居られない。従って然[そ]う云う空合[そらあい]の時には雷鳴があるのだから、いつもはかつぐのに、その時は、そんな事を言って居る隙はなかった。
窓を開けると、ここにも飛ぶ。下屋[げや]の屋根瓦の少し上を、すれすれに、晃々[きらきら]、ちらちらと、飛んで行く。しかし表からは、木戸を一つ丁字形に入組んだ細い露地で家と家と、屋根と屋根と附着[くッつ]いて居る処だから、珊瑚の流れは、壁、廂[ひさし]にしがらんで、堰[せ]かると見えて、表欄干から見たのと較べては、やや疎[まばら]であった。この裏は、すぐ四谷見附の火の見櫓を見透すのだが、その遠く広いあたりは、日が眩いのと、樹木に薄霧が掛ったのに紛れて、凡[およ]そ、どのくらいまで飛ぶか、伸[の]すか、そのほどは計られない。が、目の届くほどは、何処までも、無数に飛ぶ。
処で、廂だの、屋根だのの蔭で、近い処は、表よりは、色も羽も判然[はっきり]とよく分る。上は大屋根の廂ぐらいで、下は、然[さ]れば丁ど露地裏の共同水道の処に、よその女房[かみ]さんが踞[しやが]んで洗濯をして居たが、立つとその頭ぐらい、と思う処をスッスッと浮いて通る。
私は下へ下りた。-家内は髪を結いに出掛けて居る。女中は久しぶりのお天気で湯殿口に洗濯をする。……其処で、昨日穿[は]いた泥だらけの高足駄[たかあしだ]を高々と穿いて、この透通るような秋日和には宛然[まるで]つままれたような形で、カランカランと戸外へ出た。が、出た咄嗟[とっさ]には幻が消えたようで一疋[ひとつ]も見えぬ。熟[じっ]と瞳を定めると、其処に此処に、それ彼処[あすこ]に、その数の夥[おびただ]しさ、下に立ったものは、赤蜻蛉の隧道[トンネル]を潜るのである。往来[ゆきき]はあるが、誰も気がつかないらしい。一つ二つは却[かえ]ってこぼれて目に着こう。月夜の星は数えられない。か恁[か]くまでの赤蜻蛉の大[おおい]なる群が思い立った場所から志す処へ移ろうとするのである。おのずから智慧も力も備わって、陽の面[おもて]に陰形陰体[おんぎよういんたい]の魔法を使って、人目にかくれ忍びつつ、何処[いずこ]へか通って行くかとも想[おも]われた。

先刻[さっき]、もしも、二階の欄干で、思いがけず目に着いた唯一匹がないとすると、私はこの幾千万とも数の知れない赤蜻蛉のすべてを、全体を、まるで知らないで了[しま]ったであろう。後で、近所でも、誰一人この素[す]ばらしい群の風説[うわさ]をするもののなかったのを思うと、渠等[かれら]は、あらゆる人の目から、不可思議な角度に外[そ]れて、巧に逸し去ったのであろうも知れぬ。
さて足駄を引摺って、つい、四角[よつかど]へ出て見ると、南寄[みなみより]の方の空に濃い集団が控えて、近づくほど幅を拡げて、一面に群りつつ、北の方[かた]へ伸[の]すのである。が、厚さは雑[ざつ]と塀の上から二階家の大屋根の空と見て、幅の広さは何[ど]のくらいまで漲[みなぎ]っているか、殆ど見当が附かない、と言ううちにも、幾千ともなく、急ぎもせず、後れもせず、遮るものを避けならがら、一つ一つがおなじように、二三寸ずつ、縦横に間をおいて、悠然として流れ通る。桜の枝にも、電線にも、一寸留まるのもなければ、横にそれようとするのもない。
引返して、木戸口から露地から覗くと、羽目と羽目との間に成る。ここには一疋も飛んで居ない。向うの水道端に、いまの女房[かみ]さんが洗濯をして居る。その上は青空で、屋根が遮らないから、スッスッ晃々[きらきら]と矢ッ張通るのである。「おかみさん。」私は呼んだ。「御覧なさい大層な蜻蛉です。」「へへい。」と大きな返事をすると、濡手を流して泳ぐように反って空を視た。顔中をのこらず鼻にして、眩しそうにしかめて、「今朝ッから飛んで居ますわ。」と言った。別に珍しくもなさそうに唯つい通りに、其処等に居る。二三疋だと思うのであろう。時に、もうやがて正午[おひる]に成る。
小一時間経って、家内が髪結さんから帰って来た。意気込んで話をすると-道理こそ……三光社の境内は大変な赤蜻蛉で、雨の水溜のある処へ、飛びながらすいすいと下りるのが一杯で、上を乗越しそうで成らなかった。それを子供たちが目笊[ざる]で伏せるのが、「摘草をしたくらい笊に沢山」と言うのである。三光社の境内は、この辺で一寸子供の公園に成って居る。私の家からさしわたし二町ばかりはある。この様子では、其処まで一面の赤蜻蛉だ。何処を志して行くのであろう。余りの事に、また一度外へ出た。一時を過ぎた。爾時[そのとき]は最[も]う一つも見えなかった。そして摘草ほど子供にとられたと言うのを、何だか檀の浦のつまりつまりで、平家の公達《きんだち]が組伏せられ刺殺[さしころ]されるのを聞くようで可哀[あわれ]であった。
とに角、この赤蜻蛉の光景は、何にたとえようもなかった。が、同じ年十一月のはじめ、塩原へ行って、畑下戸[はたおり]の渓流滝の下の淵かけて、流の広い渓河[たにがわ]を、織るが如く敷くが如く、もみじの、尽きず、絶えず、流るるのを見た時と、-
塩の湯の、断崖の上の欄干に凭[もた]れて憩[いこ]った折から、夕颪颯[ゆうおろしさつ]として、千仭[せんじん]の谷底から、滝を空状[そらざま]に、もみじ葉を吹上げたのが周囲の林の葉を誘って、満山[まんざん]の紅の、且[か]つ大紅玉[だいこうぎょく]の夕陽に映じて、かげとひなたに濃く薄く、降りかかったのを見た時に、前日[さきのひ]の赤蜻蛉の群の風情を思ったのである。 
肝心の事を言いおくれた。-その日の赤蜻蛉は、残らず、一つも残らず、皆一つずつ、一つがい、松葉につないで、天人の乗る八挺[はっちょう]の銀の櫂の筏のようにして飛行した。
何と……同じ事を昨年も見た。……篤志[とくし]の御方は、一寸お日記を御覧を願う。秋の半[なかば]かけて矢張り鬱々陰々として霖雨[ながあめ]があった。三日とは違うまい。-九月の二十日前後に、からりと爽かにほの暖かに晴上った朝、同じ方角から同じ方角へ、紅舷銀翼[こうげんぎんよく]の小さな船を操りつつ、碧瑠璃[へきるり]の空をきらきらきらきらと幾千万艘。-家内がこの時も四谷へ髪を結いに行って居た。女中が洗濯をして居た。おなじ事である。その日は帰って来て、見附の公設市場[しじょう]の上かけて、お濠の上は紀の国坂へ一面の赤蜻蛉だと言った。惜い哉。すぐにもあとを訪ねないで……晩方散歩に出て見た時は、見附にも、お濠にも、ただ霧の立つ水の上に、それかとも思う影が、唯二つ、三つ。散り来る木の葉の、しばらくたたずまうに似たのみであった。
(大正十一年五月二十三日-三十一日「時事新報」)