1/2「侠客の種類 - 幸田露伴」日本の名随筆別巻94江戸 から

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1/2「侠客の種類 - 幸田露伴」日本の名随筆別巻94江戸 から

侠客と一口に言つても徳川時代の初期に起つた侠客と其の以後に出た侠客とは、名は同じ侠客でも余程様子が違つて居るやうである。初期のは市人の中の気概のある者か或は武士の仕官の途に断念した者などが、武士の跋扈に反抗して之を膺懲し或は之に対抗する考へから起つたのであるらしいが、夫から以後、即ち天明前後から天保あたりへ懸けての侠客といふもの多くは博徒のやうな類である。即ち之を分類すれば、徳川初期のは強い圧迫に対する強い反抗の体現であつて、其の物の本当のいみからすれば、強い者に当る必要上真実に強きものたるを主とするは勿論であるが、真実に於ては寧ろ啻に強いことを見得として居る様な傾きのあつた、やや虚栄的衒耀的のものであつたらしい。然るに天明あたりからの博徒に至っては、夫れ自らが非常に強い、鷙悍当る可らざるものがあつた。然様判然とした区別は意識的には付かぬまでも、少くとも両時代の侠客には何分かの差異があつたのである。我国で乱離の世と云へば先ず足利の末世を指すのであるが、博奕が此時代から大いに盛んになつた。元来戦争其ものが己に一つの大博奕であるからと云ふ訳でも無かろうが、梟蘆一擲と云ふ冒険的思想は、戦争にも博奕にも通じた同一の根本思想である。此の戦国時代に起つた博奕は、太平の世になつても引続いて勇気の多い、事を好む徒輩の間に盛んに行はれて居たので、尤も元文(吉宗)になつて一度禁制はされたものの天明前後(家治)から又た盛んになり、所謂侠客は隠然として博徒の巨魁たる観を呈して居た。

夫れから第三次の侠客は、諸大名の中に何か一つ事が起ると人夫が必要になる、二本指[にほんざし]の人間は使つて居ても之を雑役には使へぬし、又た俸禄の関係から云つても、平時用の無い時に万一を慮つて沢山の雇人を使つて置くといふことは出来ぬ。其処で臨時の用事が出来ると一時限りの人夫を雇ひ入れる、今日でも兵士の外に軍夫の必要があると同様で、平時でも士分以外のものなどの事故があつて引いたり居なくなつたり為た時分にも、夫れに代へる人間の必要もある、其の需要を満たす為に大名や武門と平民商人との間に、今の雇人口入業とも一緒には言へぬが所謂「人入れ」なる職業があつた。而して其の人入れ親方なるものは、職業の性質上どうしても侠客肌の者で無ければならぬ処から、斯う云ふ種類の親方なるものは、大抵侠客の名を以て呼ばれたもので、たとえば近世の大侠客相政の如きも亦た土州侯の人入れであつたし、新門辰五郎の如きも矢張りただの博徒ではない。此等は寧ろ前述の博徒などとは全く訳が違ふのである。凡て侠客には此の一種類がある。以上で三種類あつた訳だ。
夫れで古い書物に見える初期の侠客は、「武野俗談」などにあるのであるが、正確の事実は能く解らぬ。之は古の談話製造家が面白く書き出したもので、尤も多少の事実はあつたにした処が正確なことは解つて居らぬ。西鶴も武士とか商人とか色々な階級を一つづつに纏めて、其の特性気質をいかにも綿密に巧みに書き表はして居る「武道伝来記」とか「世間胸算用」とか、其他にも色々あるが、どうも侠客を専門にまとめて書いたものは一つも無い。近松のものでも全く無いといふでは無いが、後の講談師の述べるやうな侠客は描いて居らぬ。之は一つは地方的関係もあらうが、兎に角初期の侠客の面目は解つて居らぬ。多少雑劇などに残つてる計りで、今日からは精確の状態は知り難いのである。

然るに天明以後に顕はれる博徒の事蹟になると、之は多少明白になつて来る。殊に講釈師の飯の種になつて居る博徒は最も多く関東に居り、関東でも甲州、上州、野州常州などいふ国は、侠客や博徒の名に連れて必ず呼び出されるのは余程面白いことである。之には一つの理由があることで、博徒の非常に横行する処には必らず有名な山がある。常陸には筑波山、上総には鹿野山、上州には榛名、赤城、野州には日光、甲州には山が至る処にある。而して此等の山の上には山神のあるのみではない、山に相当した駅場のやうな町が建つて居て、其の盛んな所には、おじやれや遊女の様な者までがある。斯うした場所は皆な恰好な賭場の開かれる地であつて、夫れと共に山の上には山の神を祭つた祠がある、此の山の神の祭日は即ち大賭場の開かれる日で、此日は地方近在の博徒の親分子分が皆集まる許りで無い、素人即ち所謂「客人」が大金を馬につけて運んで来て、賭博を玆に試みるのを楽しみにして居た。つまり中世乱離の頃は戦争と博奕といふものが密接な関係を有して居たのが、末代太平の世には山の祭と云ふものと博奕とが大きな関係を持つやうになつた。又山は上代にあつては所謂嬥歌[かがひ]や歌垣で、若い男女の縁結[えんむすび]の役目を勤めて居たものだが、末代になつては博徒のために男を磨く戦場の役目を務めて居る。斯[かく]て博奕を為すに適当な便宜のある山は極めて繁昌し、駅場も大きくなつた。夫れで若し山霊をして、当時其の山に開帳された大博奕の光景や各親分の性行を語らしめたならば、講釈師が張扇で叩き出すやうな作り話では無く、本当の面白い侠客伝が何程出来ることであらう。従つて今日存在して居る山の上に在る大きな町で、別に貨物集散の中枢となつた訳でも無く、又別に風景に勝れた為でも無く、神霊灼乎たるわけでもなく猶ほ盛んなものがあつたならば、夫は大抵博奕の為に出来た町と想像が付く。甲州然り、武州然り、筑波、日光然り。夫れが今日は避暑や逍遙の地になつて居ると云ふも、又た時勢の変遷面白いものではない乎。