「意識の不思議 - 渡辺正峰[まさたか]」高校生のための科学評論エッセンス ちくま科学評論選

 

「意識の不思議 - 渡辺正峰[まさたか]」高校生のための科学評論エッセンス ちくま科学評論選

意識の仕組みを紐解くために、まずは極限にまでこれを還元しておくべきだろう。現在のコンピュータは意識をもたない。では、私たちにあってコンピュータにないものとは何だろうか。
もはやコンピュータを侮ることはできない。チェスの世界チャンピオン、カスパロフIBMのスーパーコンピュータ「デープ・ブルー」に敗北を喫したのは一九九七年の話である。二〇一七年に、グーグル傘下の企業が作った人工知能「AlphaGo(アルファ碁)」が、世界でもっとも強いとされる棋士を負かしたのも記憶に新しい。ルールが定められた中での問題解決能力では、多くの分野でコンピュータが人を凌駕してしまっている。
一方、コンピュータが人間には到底及ばないと考えられてきた画像認識のような分野でも、だいぶ雲行きが怪しくなってきた。これはひとえに、深層学習(デープラーニング)と呼ばれる、脳を模したソフトウェアによるところが大きい。
図1にあるような、ノイズを含み、判読しにくいように加工された文字列を見たことがあるだろう。インターネットサービスのアカウント作成時などによく見かけるものだ。もとは、不正なアカウント登録を防ぐために、人間には判別できてコンピュータにはできないものとして導入された。にもかかわらず、最近では人間よりコンピュータの識別率のほうがよくなってしまった。
このような時代にあって、コンピュータにはその片鱗すら実装されていないもの、科学者や哲学者によっては、未来永劫実装されないだろうというものがある。それは、モノを見る、音を聴く、手で触れるなどの感覚意識体験、いわゆる「クオリア」だ。
クオリアと言われて、一度でもそれを耳にしたことのある読者は、身構えてしまうかもしれない。この言葉について、ネットなどには「感覚質」などといった、わかったようなわからないような説明が立ち並ぶ。しかし、クオリア自体の意味はそこまで複雑なものではない。視覚で言えば、単に「見える」ということに他ならない。顔の前にあるものは見えるが、頭の後ろは見えない。前には視覚クオリアが存在し、後ろには存在しない。ただそれだけのことだ。
難しいのは「クオリア問題」のほうだ。なぜ脳をもつものに、そして脳をもつものだけに、クオリア=感覚意識体験は生起するのだろうか。最新のデジタルカメラは、レンズをとおして景色を捉え、その中から顔を探し出し、そこにピントを合わせられる。しかしながら、景色そのもの、顔そのものを「見て」はいない。いわば、デジタルカメラは視覚クオリアをもなたない。
この事実を実感することが、クオリア問題を理解するための第一歩だ。私たちにとって世界が見えていることがあまりに当たり前であるため、同様にしてカメラなどにも世界が見えているように勘違いしてしまう。重要なのは、画像を処理し、それを記録することと、世界が「見えて」いることとは本質的に異なる点だ。最初のつまずきとなりやすいため、この部分に関しては、いくつかの例とともに説明していきたい。

 

感覚意識体験(クオリア)が、私たちにとって当然のものであるがゆえに、それが意識をもつ者だけの特権だという実感がなかなかわかないかもしれない。それを理解するには、ある種の発想の転換わ必要とする。
そのきっかけとなりうるのは、私たちが見ている世界が、実際の世界とは似ても似つかないことを知ることだ。私たちは、世界そのものを見ているわけではない。私たちが見ているように感じるのは、眼球からの視覚情報をもとに、脳が都合よく解釈し、勝手に創りだした世界だ。
日々、私たちは総天然色の視覚世界を体験するが、実際の世界に色がついているわけでは決してない。色はあくまで脳が創りだしたにすぎず、外界の実体は電磁波の飛び交う味気ない世界だ。
ちなみに、ラジオやテレビに使われる電波も、電子レンジに使われるマイクロ波も、私たちが見ている光も、みな同じ電磁波だ。異なるのは、波の長さ(波長)だけであり、私たちが見ることができる光は、約一万分の四ミリメートルから一万分の八ミリメートルの間の波長をもっている。それより短くても長くても、私たちにとって無色透明、無味無臭で、それを感じることはできない。
ここで面白いのは、通常、私たちが近い色として感じる赤と紫が、赤外線(波長が長すぎて見えない)、紫外線(波長が短すぎて見えない^^)の言葉からもわかるように、私たちが見ることのできる光の波長では両極端に位置することだ。物理的な特性として遠く離れたものが、よく似たものとして感じられることは、感覚意識体験があくまで脳によって創りだされたものであるこてを如実に物語っている。
とにかく私たちは、サーチライトが闇を照らしだすかの如く、眼球が三次元世界をスキャンして、世界そのものを直接見ていると誤解しがちだが、決してそうではない。あくまで脳が、二つの眼球から得た二組の視覚情報を再構成し、それらしく「我」に見せているにすぎない。ただ、それらしく見せられた世界の出来があまりによいために、かえってそのことに気づきにくいのかもしれない。