「戦後マンガ史ノート・序章(抜書) - 石子順造」戦後マンガ史ノート から

 

「戦後マンガ史ノート・序章(抜書) - 石子順造」戦後マンガ史ノート から

2 「漫画」と「劇画」

ここまでかいてきたところでもすでにお気づきと思うが、ぼくは「漫画」と「マンガ」とをかき分け、また「劇画」と「マンガ」をも使い分けてきた。それには多少の理由がある。そういった使い分けや定義などは、じつは大した問題ではない。語の意味があいまいなまま、めちゃめちゃに使われている情況でこそその語は生きている、とは先述したとおりだからだ。けれど、文章でかき、一応整理してみようとすると、やはり気になってくるもので、ぼくは、およそつぎのようにきめている。
「マンガ」を、もっとも広義な意味の語として用いる。したがって、「劇画」も「マンガ」の一部とみなす。むろん、「漫画」というふうに漢字で書いてもいいのだが、「漫画」を戦後の「ストーリー・マンガ」あるいは「劇画」までひっくるめた広義の語としては使いにくい。いずれ後の章でややくわしく述べることになるが、戦後の手塚治虫に代表される「ストーリー・マンガ」は、一コマものの「漫画」とはちがって物語性に重点をおいた呼称であったし、「劇画」は、そんな「ストーリー・マンガ」や「漫画」ともちがうのだという意味合いをこめて「劇画」といわれ出した語なのである。それに、今日では「コミック」という語も、これに加わっている。「コミック」と「劇画」とでは、物語性を持った連続コマのかなり長いマンガという点では変りないが、発生や来歴ははっきりちがう。「劇画」の英訳を「comic(s)」とするのも、ちょっと無理が残るのだが、そんなふうに書いてある辞書もあり、最近は、フランス語の「バンド・デシネ」(la bande dessinee - 文字通りなら「絵物語」の意)を「劇画」と訳した訳書もある。事実、作品を見た限りでは、アメリカ生まれの「コミック」や、フランスの「バンド・デシネ」とまったく変わらない作品が、日本では「劇画」といわれているのだから、あまり気にしないほうがいいのかもしれない。
しかし、わずらわしさは避けて、できるだけ正確に使ったほうがいい。それぞれの語には、それぞれの素性や来歴があるのだから、まったく同じように使うのもこのさいやめにしたい。そこでかんたんに「劇画」だけを定義しておくとすれば、笑いの要素がない、物語性をもった、実録的な連続コマのマンガ、ということになろうか。読者対象が主として青年層にあるという点も「劇画」の特徴だろう。
おそらく、この笑いの要素がないという一点が、すべての「漫画」と「劇画」とを区別し、実録的な物語というところが「ストーリー・マンガ」や「コミック」とも「劇画」を分ける標識である。「ストーリー・マンガ」や「コミック」は必ずしも笑いと無縁なものとは意識されていない。
むろん、こういったちがいは、ほぼ原則的にそうだといえる程度の特徴であって、個々の作品にそくして厳密に当てはめることのできるものではない。しかし、「漫画」から笑いの要素をなくしてしまうというのは、今日ならともかく、「劇画」が誕生した昭和三〇年代前半では、ほとんど「漫画」そのものの否定を意味していたといってもいい。だから、「劇画」という別の呼称が用意されもしたのだった。 

しかしじつは、日本のマンガ史を少していねいに点検してみると、マンガに笑いの要素がなくてはならないという原則的な通念は、そう昔から確固としてあったものではないらしい。どうも昭和に入ってから、いつの間にか、そう思い込まれてしまったふしがある。
だいたい、「漫画」という語がそんなに古いものではないのだし、北斎がかいた「北斎漫画」あたりから使われて出したとしても、その「北斎漫画」そのものが文章でいえば随筆とか漫文といったような作品であって、作品の受け手を笑わせようと意図してかかれた絵ではない。
日本で、マンガの歴史についてまともてかかれた最初の本は、大正一三年の七月に発行された細木原青起著の『日本漫画史』であった。細木原は、昭和に入ってからもかなり長い期間活躍した漫画家として知られている。以後、何冊か刊行されているマンガ史の本は、すべてこの『日本漫画史』にのっとっており、いわば定本といえる著書である。
この本の中で細木原は、「漫画」の定義にずいぶんと困惑している。まず、「一体漫画には定義はないのである」といい、でも「漫画」があるのだからとつづけて、岡本一平の定義を「兎も角拝借する事にする」としていた。岡本一平の定義というのは、こうである。
「漫画とは宇宙間の万物に就きて、その現状並に相互間の交渉する実相を解剖抉剔[けつてき]し、其の結果の美を表現する絵画を謂ふ」。
なんとも壮大なというか大げさなというか、賛成も反対もしがたいような定義だが、要するに岡本一平も、漫画が定義しにくいし、「本画」に対する気負いもあったので、こんなふうにいったのだろうと理解しておけばよさそうだ。細木原は、「純正美術が美其物に執着して是れを第一義に置くに対し、漫画は人世の機微に喰い入って其の実相を穿[うが]つを第一義に置き、美を其次ぎに置く丈けの相違である」と補足していた。また、「其第一義を現はす為の表現法に依って何等の拘束を受けない処に、捕はれ易い純正美術に対して大自由がある」ともかいている。
美を第一義的な目的としないという以外、人事百般にかんするどんなことを、どんな方法でかいてもいいというのだから、流派もなければおもしろおかしくなくてもいいわけだろう。岡本一平細木原青起の「漫画」観には、笑いという要素は見当たらない。もっとも、「人世の機微に喰い入って其の実相を穿つを第一義」としてかけば、その絵は、何らかの意味で受け手の笑いを誘うものとなるはずだとは、いささか強引だがいえるかもしれない。いうまでもなく笑いは人の状態なのだし、笑いにだって、自嘲や冷笑までいろいろと種類がある。ホンネを秘めてタテマエで渡る世の人事の「実相を穿つ」と、そこにホンネがすけてみえ、思わず笑いを誘われるということもあるだろう。しかし、それとても結果にすぎないのであって、当初からかき手が受け手を笑わせようと意図して「実相を穿つ」という手順ではあるまい。
要するに、「漫画」という語には、受け手を笑わせるという表現の要素は不可欠とはされてはいなかったわけである。それに、この語が世人に親しまれるようになったのは、明治になってからの「ポンチ(絵)」に変わって、ようやく大正中期以降でしかない。それが、いつのまにかおもしろおかしく、ときには風刺的な絵が「漫画」なのだとされるようになったのは、ヨーロッパの「カリカチュア caricature」の邦訳に、この語を当てるようになってからだと思われる。「カリカチュア」というのは、イタリヤ語の「カリカーレ caricare」から生じ、そもそもは二つのもののどちらかに重点をおいて、その均衡を破るというような意味を持っていた。身体にふつりあいに顔を大きくするとか、目鼻にくらべて極端に口を小さく描くとかいったたぐいの絵がカリカチュアと呼ばれていた。一四、五世紀頃のイタリヤには、カラッチ派の画家のように、誇張した似顔絵をかいて生活の資をえていたような専門的な画家がすでにいたのだが、その「カリカチュア」に「漫画」をあてたとき、おもしろおかしいという笑いの要素が第一義的なものとしてすりかえられてしまったのではないかと、ぼくは推測する。因みに、フランスでは、似顔絵のことは「シャルジュ charge」と呼ばれている。

こうして、昭和期に入ってからマンガはおもしろおかしいものでなくてはならないという通念ができ上がってゆき、やがてそれが固定化してしまって、戦後、それも三〇年代まで引きづられてきたと思える。初期の劇画家たちが、その通念に疑問を抱き、徐々にではあるが、意識的と無意識的とを問わず、笑いの要素が乏しいマンガをかき始めるようになったのは、それなりに創造的でも変革的でもあった。その創造性、変革性の意味はいずれやや詳しく説明するつもりだが、そこにじつはマンガ表現のアクチュアリティが認められるのであって、マンガの表現としての本来的な自在さからいえば、こと改めてマンガそれ自体の存在否定でもなんでもなかったのである。
それともうひとつ、連続コマの形式ないし物語性にも、かんたんにふれておこう。日本での連続マンガは、北沢楽天が『時事新報』で、「灰殻木戸郎」や「杢兵衛田吾作」の連載を発表するようになった明治三四年からである。楽天は、すでにその頃、「ポンチ」に代わって「時事漫画」という語を使用したが、まだあまり一般的には通用しなかった。また、物語性のあるマンガの最初は、大正一〇年から『朝日新聞』に連載された岡本一平の連載小説「人の一生」であるといわれる。なかでも、大正一三年から三年間にわたって『報知新聞』に連載された麻生豊の「ノンキナトウサン」は、新聞紙面における四コマのマンガ欄を頁の左上に固定するきっかけになるとともに、四コマ・マンガの基本的なキャラクターやコマ展開の原型をつくった。そして昭和になると、田河水泡の「のらくろ」や島田啓三の「冒険ダン吉」など、物語性のあるかなり長編のマンガが、少年向けの雑誌を舞台にかかれるようになり、戦後の手塚治虫に代表される「ストーリー・マンガ」に引き継がれるのである。
しかし、このような物語性のあるマンガも、おもしろおかしいという要素を第一義的に重視していたのであり、その意味では、一コマものの「漫画」と変わりなかった。主として少年・少女を読者対象にしており、動物やロボットを主人公にしたりして、お話も相当荒唐無稽であることを拒まなかった。そこがまた、同じように物語性のある連載コマのマンガといっても「劇画」とちがうところなのである。笑いの要素がなくなることと、物語があまりにもつくり事ではなく実録的になっていくということ、したがってさらに、描写もリアリスティックになっていき、おのずから青年層が読者の中心になるといった劇画の特徴は、それぞれ密接に関連している。すなわち、そういった特徴が一つの様式として結実してくるプロセスが、ほかならず劇画を生んだ戦後マンガの道程なのである。
ぼくは先に、「漫画」と「劇画」の定義のちがいなど、どうでもいいみたいなことをいった。にもかかわらず、ここしばらくは、まさに定義にかかずらい、しきりと二者の異同を強調してきたらのごとくである。だが、ぼくの真意は、やはり定義そのものではないということを重ねていっておこう。ぼくは、ぼくなりに戦後日本のマンガを情況論的に点検してみたいのだ。マンガを、時代・社会の所産として、民衆の喜怒哀楽がどのように映し出されてきたか、だからなによりも表現のアクチュアリティにポイントをおいて、戦後マンガをふりかえってみたいのである。そうすると、やはりどうしても、劇画をどうとらえるかが決定的な分岐点として浮かび上がってくる。そこでます、定義にもある程度こだわらざるをえなかった。