「痩我慢 - 車谷長吉」エッセイ・評論集 つげ義春賛江 から

 

 

「痩我慢 - 車谷長吉」エッセイ・評論集 つげ義春賛江 から

私方[かた]の嫁はんの仕事の都合で、朝日新聞を購読している。朝な朝な政治欄に、山田紳、針すなお小島功氏の政治漫画を、また社会面に、いしいひさいち氏の四齣漫画「ののちゃん」を感心しながら見ている。いずれも、その才能の豊かさに畏敬の念を覚えさるを得ない。
併し私は凡そ漫画というものは、これ以外には決して見ない。ことに漫画雑誌には謂れのない嫌悪感をいだいついる。こういう傾向をいだくようになって、もう二十数年になる。私の神経が、漫画雑誌に載っているあの劇画と言われるものの大袈裟で、醜悪で、汚らしい表現に堪え得ないのである。電車の中で漫画雑誌を読んでいる男、または女を見ると、それだけで鳥肌が立つ。何か途轍もなく不潔なものに出逢ったような気がする。私はそういう人に偏見を持っているのである。よくないことだ。が、偏見というのは、私達の生の原質が不可避的、かつ自然にいだいてしまう痼[しこ]りのようなものであって、これを無理にすり潰そうとすれば、逆に痼りは固くなるばかりである。従って私は電車の中で漫画雑誌を読んでいる人を見ると、目を背けている。これは相当に苦痛である。偏見をいだくことの苦痛、いや、生きることの苦痛である。
ところが、である。そういう私が先頃、ある漫画を読んで深い感銘を覚えた。つげ義春氏の『無能の人・日の戯れ』(新潮文庫)である。今年の春、新聞の書籍広告を見ていたら、「このまま野垂れ死ぬか、いっそ蒸発でもするか・・・。〈私〉漫画の代表作十二編」という惹き文句が目に付いた。私は「〈私〉漫画」とは何だろうと思うた。なぜそういうことを思うたかと言えば、年来、私は苦しい思いをして「私[わたきし]小説」を書き続けて来たからである。それで早速に購入して一読した。するとこれが驚嘆すべき出来の芸術漫画だった。
あとで人に聞けば、つげ義春氏の「無能の人」というのは、すでに漫画の世界の古典として、人にはよく知られた作品なのだそうで、従ってここに改めてその内容を紹介する迄もないのだが、主人公は、娯楽漫画ではなく、売れない芸術漫画を描いている貧乏な男で、併し当然それだけでは喰うて行けないので、川原で拾った石ころを筵[むしろ]掛けの小屋で売るような生活をしているのである。無論、石など売れやしない。その他、漫画に行き詰まると、渡し場の番人、墓掃除人、骨董品屋、写真機の中古品屋、古本屋などをしたりするのだが、何をしても駄目で、とどの詰まりは、嫁はんに「漫画だって芸術などと/おだてられて/調子に乗るから/けっきょく注文も/こなくなったじゃない」とか「なにさ/ぐうたら/能なしの/くせに」とののしられ、あんたが本気で出来るのは、漫画だけだから、漫画を描いて、となじられる。生活無能力者なのである。ということは、この碌でなしを倫理的・美学的に見れば、「無能の人」とは「痩我慢の人」ということになる。
無論、ここには著者略歴に「昭和十二年、東京葛飾区生れ。小学校卒業と同時に、兄の勤め先のメッキ工場に見習工として就職する。そのかたわら、マンガ家を志し、十六歳で実質的なデビューを飾る。」と書いてあるつげ氏の面影が、幾分かは投影されているだろう。つまり、つげ氏の「〈私〉漫画」とは極めて色濃く、貧乏文士が書く「私小説」の味を含んでいるということだ。実は私が「無能の人」に魅せられたのは、そこだった。
文士と言うと、時々新聞や雑誌に名前が出るので、一見花のある生活をしているように思われる向きもあろうが、併し私の如きしがない私小説家は、全身全霊を傾けて原稿を書いても、年収百万円にも満たず、やむなく週二日、某会社で嘱託勤めをさせてもらい、元よりそれでも喰うては行けないので、校正の内職をし、あとは嫁はんにぶら下がっているというのが実際である。つまり、つげ氏の漫画に描かれた虚構の生活を、現実にいとなんでいるのである。その支えとなって来たのは、反時代的な痩我慢だけだった。
されば、ここに一つ驚いたことがある。私は『無能の人・日の戯れ』を読んだあと、新潮文庫編輯部の冨澤祥郎氏に逢って、つげ義春氏の作品への共感を洩らした。それが思い掛けなくつげ氏の耳に伝わつた。すると何と偶然、この十年間につげ氏が買って読んだ本というねは、実は私の『★壺の匙』(新潮社刊)一冊だけで、つげ氏も私の私小説に共感して下さったとか。そういう話が冨澤氏から伝わって来て、気味の悪いような気がした。少し恥ずかしくもあった。
痩我慢とは、言い直せば、甲斐性なしの苦行僧的倫理・虚栄的美学のようなものである。虚栄であるからには、これは人として欠くことの出来ない大事な私情ではあるが、併しそうであるが故にまた、これは一つの苦痛に沈んだ実践である。つまり、嫁はんに尻拭いをしてもらって生きている男の、自己に対する怒りに満ちた、悲しい意地である。