「交情蜜の如し - 藤蔭静枝」荷風追想 岩波文庫 から

 

「交情蜜の如し - 藤蔭静枝荷風追想 岩波文庫 から

 

荷風さんが亡くなったという知らせを受けた時、私は本当にびっくりしました。一時は目の前がまっくらになったような気持で、身体中の力が抜け、受話器をもったまま思わずヘタヘタとその場に坐りこんでしまったような始末でした。お別れしてからもう三十年以上にもなる今さら、別に未練があるとか恋しいとか、そういう浮ついた感情が残っているというわけではなく、何かこう心のどこかに支えとなっていた魂の拠り所が失われたような、そういう空白感に襲われております。若い頃から胃腸が弱いだけに、かえって用心深く、私は少くとも百までは生きるお人だと信じておりましたのに・・・。新聞の報道によりますと、晩年には毎日、きまったようにお酒をのみ、カツ丼を食べていらしたとかですが、そんなものをどうしてお好きになられたのか、昔の荷風さんを知っている私には、到底同一人とは思えないくらいの変りようです。
初めて私が荷風さんとお近づきになったのは、たしか明治四十二、三年頃だったでしょう。私も歳のせいか耄碌して確かなことは思い出せませんが、何でも藤間勘右衛門さんの内弟子になって踊りの免許と芸名をもらい、同郷(新潟)の待合主人某氏の世話で、八官町[はちかんちよう]の煙草屋の二階を借りて、巴屋八重次と名乗り、新橋の芸妓に出た時分のことと思います。その頃、日吉町の盛り場に、「プランタン」というカフェーがありまして、小山内薫坂東秀調[ばんどうしゆうちよう]、兼子伴雨その他の文士や芸能人、記者の連中がよく集まって賑やかに繁昌していたのですが、当時フランス帰りの新進作家として慶応の教授に迎えられた先生も時々この店に姿を現わされるようになりました。若くておしゃれでお坊ちゃん育ちらしい先生を紹介して下さったのは、たしか小山内さんだったと思いますが、初めてお目もじした夜は、高嶋屋さん(故市川左団次)も御一緒でした。そんな関係で、それから間もなく、その左団次の芝居を明治座で観る会がありました時、偶然、荷風さんと二人きりで話す機会が与えられました。ちょうど荷風さんは、ある女の人に失恋の痛手を受けていたらしく。親がかりの若旦那風のぬけない、こんな純情な良家のお坊ちゃんを捨てるなんてひどい女だと、私は女心の同情から、いつしか荷風さんを慕う気持が高まりました。二人は、それ以来、いつも「プランタン」を媾曳[あいびき]の場所として、「交情蜜の如し」といわれるほどの仲となり、先生は私のところから慶応に通うという噂さえ広まってしまいました。

けれども、こうして四、五年も経ったでしょうか、ある日、荷風さんは突然「僕は結婚するよ」といって、ぷっつり来なくなってしまいました。何でも金持の材木屋さんの娘さんと、良縁が調ったとかいう話を聞いて、性来嫉妬深い私は、気も動顚するほど怒り悲しみ、何と薄情なお人よ、いっそ死んでしまいたいとさえ思いましたが、半年も経つか経たないうちに、また、これも突然「奥さん出て行ったよ」といってぷらりと私の宅の格子戸をたたくのには唖然とする他ありませんでした。それでも、もともと好き同士のことですから、焼けぼっくいに火はすぐついて、二人はまた元の恋愛関係に入り、私はしょっ中、大久保のお宅へ伺うようになりました。
その時分、お座敷のおつきあいや何かで、私はだんだん酒量がふえ、そのため年柄年中お腹をこわしたり胃をいためたりしていましたので、日本橋の反魂丹[はんごんたん]を売る店からゲンノショウコ(矢筈草またはみこし草とめいう)を買って、お茶代りに常用していました。先生は、お酒もきらい、煎薬もきらいというお人でしたが、ある日、私が伺うと、先生は猛烈な下痢を起し、下腹に蒟蒻[こんにやく]を当てて臥っておられましたので、大変心配し、早速この薬を煎じて無理やりに飲ませてあげましたら、その効目があったのでしょうか、先生のご病気もまもなく治り、ホッとしました。それ以来、先生も散歩のついでには、四谷の土手などに自生している矢筈草を摘んで帰ったり、お庭に移し植えたりして養生の友とされるようになりました
私たちが、左団次さん御夫妻の媒酌で正式に結婚を許され、山谷の八百善で式を挙げたのは、この矢筈草がとりもつ縁かもしれませんが、大正三年の八月末の吉日、恋愛生活実に七年目、永すぎた春のあげくのことでした。

新居は大久保の余丁町、広い永井家の別棟にきまりましたが、何しろ代々の旧家で、家具調度の類から和漢の書物、愛玩の什器など数多く、芸妓上りの女には身分不相応の環境でしたので、私は、最初は戸惑いしながらも、朝晩の拭き掃除から家具の修繕、盆栽の手入れ、文具の始末など、一生懸命、先生のよき妻になろうと心がけました。襷がけで手先を墨によごしながら、一枚々々、先生の草稿の罫紙を板木で何帖となく摺る楽しみも覚えました。浮世絵や骨董品を集めることのすきな先生のおともをして、四谷、日本橋あたりまで出かけたり、カナリヤを買って来て二人で餌をやって育てたり、歌沢節の稽古に通ったりもしましたが。妙に几帳面なところもあって、下手に書斎の本など片づけると先生はものすごくお叱りでした。食物にしても、おみおつけの匂いがきらいだといって、女中部屋を他に移せといわれたこともあるくらいで、お米もおさしみも塩ザケも、あまり食べようとなさらないので、朝夕の食膳の工夫はひとしお苦労の種子でした。御飯はできるだけやわらかく炊き、好物の茶碗むしを添えるとか、フランス流の洋食を習い覚えて作ってみるとかして苦心しました。お酒も当時は大嫌いで、のみすけの私は、結婚式の日に「扇も捨て、お酒もやめます」とハッキリお約束したのでしたが・・・。ともかく先生はかかりつけの医者から、「腸壁薄うなりて吸収衰へたれば、栄養も十分なる能はず、且つは些細の異食にも冒され易く、陽気のいささかの変化にさへ忽ち影響を蒙りて、泄瀉[せつしや]を起し来るなり」(断腸亭記)と診断され、「手当を怠りなば、遂に穴あきちぎれぬべし」と嚇かされたほど、腸疾患にお弱かったので、ご自分でも平素十分注意して、食物も口やかましく用心しておられたようでした。ご自分の書斎を「断腸亭」と命名されたのも、こういういきさつによるそうです。身のまわりのお世話にしても、大変むずかしく、人一倍おしゃれで、身だしなみはいつもキチンとしていないと気に入らず、着物の見たて、袴の筋目にうるさく、一日中書斎にとじこもって物を書いているかと思うと、ひより下駄をつっかけて何もいわずにぷいと外出してしまう、という気まぐれな日常生活に手をやくこともしばしばでした。お母さまが大変よくできた方で、クリスチャンらしく、芸者上りとさげすむこともなく、私にはよく目をかけて下さいましたので、辛抱の仕甲斐もあったというものですが、普通のひとなら到底我慢のならない家庭生活だったかもしれません。

私が、結婚後半歳にして家を出たのも、その生活に妥協の限界がきたというより、先生の浮気心と私の嫉妬心とが、こういう家庭の中では馴染めなかったという方が正しいでしょう。その上、私も左褄をとり、舞扇一本さえあれば暮してゆけるという自信があったための強気でやったことかもしれませんが、別れてみるとやはり淋しく懐かしくて、その後何回となく焼棒杭[やけぼうくい]に火のつくこともありました。しかし、荷風さんも、次々と新しい女と交渉をもたれていた模様で、最後にハッキリと離婚を言渡された時は、それまでの手紙や写真は一切とりあげて持ち帰ってしまうという冷たい仕打でした。それ以来、ずーっとお互い別れ別れの生活でしたが、たしか大正十二年の大震災の前後の頃と思います。一度だけこんなことがありました。私が結核性の腸炎か何かで神田の長谷川病院に入院中、ひょっこりとお見舞の花束を持って来られたらしく、幸か不幸か、絶対安静で医者が面会謝絶の旨をいったら、そのまま帰ってゆかれたとか、後でききまして、荷風さんにもそんなやさしい一面があったのか、とその花に顔をよせながら思わずホロリとさせられたことでした。
亡くなられた後、新聞記者や何かに思い出の品物でもないか、といろいろ責められましたが、今は何一つ当時のものは残っておりません。ただ先日、何の気なしに御飯の時永年使っていた桑の箸箱を見ていたら、その蓋の下に、見覚えのある字体で「荷風」と墨書してあるのが目にとまりました。考えてみると、その象牙の角箸は、もうすっかり先がササラのようにわれてしまって、何十年使ったか分からないものですが、度々の火災や転宅にも、よく失われずに来たものと思います。多分、ご一緒にいた頃、お使いになっていたものが、いつか私の日常の食膳で用を足すようになったものでしょう。私はたった一つ残されたこの懐かしい箸箱を形見として、これからの余生を、毎日お通夜のつもりで相変らずお酒を飲みながら暮してゆこうと考えています。お別れした時、お互いに、「もう二度と結婚はしないよ」「私も一生独身を通します」と誓いあったその言葉どおり、お仏壇の奥と外で、何の気兼ねもなくお酒を酌み交わすのがせめてもの幸福と思っている次第です。