「毒キノコ - 渡辺隆二」山里に描き暮らす から

 

「毒キノコ - 渡辺隆二」山里に描き暮らす から

 

平成二十二(二〇一〇)年の夏は暑かった。都心の真夏日は七十一日になり、観測史上最多であった。言うまでもない、人は健忘症である。喉元過ぎれば熱さ忘れる?
真夏日がつづいていた頃、「八ヶ岳の麓にいる君がうらやましいよ」という便りを、友、知人たちから少なからずいただいた。あにはからんや、標高六〇〇米余、樹々に囲まれるアトリエにいてさえ、息もつけぬ灼熱のなかにあった。雪の厳寒の方がいい、などと言っていたのである。厳寒であればまたその逆を言う。
山麓は言わば高地であり、海岸と同じく紫外線が強い。その陽射しが森や田畑を照り焼きにする。川の流れも止まったかと思う白日の下、人、鳥、虫たちの気配なく、死の世界がついそこまでやって来ていた。そして稲、野菜、特産の果物類の作柄を憂慮するニュース。と同時に、昔からの言い伝えが私の頭をかすめる-。お里不作でお山豊作。
九月に入ってからもお天道様は容赦ない。そんななか、アトリエの庭のそこかしこに、沢山のキノコたちが頭をのぞかせる。多くは昔からの常連だ。
レンゲツツジの大株を囲んで、黒装束もいかめしくクロハツの面々が、石段の片隅には明るい黄土色の傘を揚げてチチアワタケも。土手際のモミの根元には見るだに不穏な姿の毒キノコ・テングタケが褐色の傘全面に白いイボ状の破片をテンテンと付着させ木陰に並んでいる。しかしこれらは、その後につづく東北のマツタケなどの波状的大発生の序章にすぎなかった。
例年、秋たけなわともなると、各地からのキノコニュースが聞こえてくる。多くは毒キノコによる食中毒である。
「これ食べられるかい?」と言って、毎秋のことだが、野山で採ってきたキノコをアトリエの庭先に広げる人々がいる。その種類、収穫量も例年になく多かった。カラスタケやクロカワなどの名菌、オオイチョウタケの群生を見付けてきたり、傘の径数十センチにもなる巨大なドクツルタケ、初めて目にするクロタマゴテングタケなどの猛毒キノコもあった。
立冬を過ぎたある日の夕方、村のキノコ狩り名人でもある知人が、飛び込んできて言った。
「田んぼ近くの林一面にシーツを広げたみてえに生[お]いてた。何言名[なんちゆうな]のキノコけぇ?」
ビニール袋いっぱいにつめ込んできたキノコを土間に広げる。全体に淡い灰色、根元は膨らんでずんぐり型、どことなしホンシメジにも似たキノコである。
私は一目で、「ハイイロシメジ」と同定した。ときに大発生をみる晩秋から初冬のキノコだ。ひと昔前、アトリエの庭南斜面に一度だけ、やはり大発生している。もうこれからの季節、エノキタケの他には野山で姿を見ることのない天然キノコである。しかし、体質によって胃腸などに中毒を起こすとされ、近年の研究(図鑑)では要注意、もしくは毒キノコ扱い、悩ましいキノコである。
山麓は、八ヶ岳の背後から北風が吹き下ろす長い冬の季節を迎えようとしていた。その風が起こる彼方の地、日本海の荒波を総身に受けたくて、十一月中旬、私は新潟へと向かった。
この旅で、私は思いがけず毒キノコを食べる、というおまけまで体験した。毒キノコは、とても美味だった?もっとも不味ければ人は口にしない。が、このはなしの前に、ちょっと寄り道をする。

 

丁度一年前の同時期、画廊「新潟絵屋」の企画で私の個展(二〇〇九年十一月下旬)があった。その折の十二日間、ギャラリーの二階(通称・ホテルオークラ本館)に逗留。その間、空は曇天、風雨、ときに申しわけ程度に陽射しをみた。合間のある日の午後、「絵屋」を主宰する美術評論家・大倉宏さんの運転で、大荒れの海を右手に“日本海夕日ライン”を西へ、角田山[かくださん]妙光寺まで案内していただいた。ちなみに大倉さんは、市の文化活動の拠点のひとつ「砂丘館」の館長でもある。二つのギャラリー、そして角田山妙光寺をもっと紹介すべきところだが、紙幅がない。
角田山からの帰途、薄暮の荒海を車窓のガラス越しに見詰めつづけた。曇天と海とが溶け合う鈍色[にびいろ]の彼方から、訴えなければやまぬとばかり執拗な力で押し寄せる波、なにを訴えようというのか、強風と荒波とが低い唸り声になって車内にまで伝わってくる。そして耳の奥に聞こえた幽かな笑い声、あるいは哀切極まる細い忍び音は、幻聴だったか。
その海に呼び戻されるような思いで、私は一年後の新潟を訪れた、というわけだ。

 

そしてこの度もまた、多忙な大倉さんに、「できるだけ海の近くで一泊」と我がままを言い、越前浜の民宿「だるまや」に同宿してもらった。希望通り海は眼前にある。
夏場には海水浴客でにぎわう浜も、さすがに人の姿はない。しかも海は、当初の期待に反し拍子抜けの穏やかさ、しぶきを浴びるどころではなかった。しかし漁には格好の日和、お陰で「だるまや」の夕餉の食卓上には、海山の幸がいろどり美しく勢揃い。カニ、エビ、アマエビはむろん、ヒラメ、ブリ、イカなどがところ狭しと並んだ。大倉さんと差しつ差されつの合間にも、女将の鈴木厚子さんが次なる珍味を運んできて、卓上からこぼれ落ちそう。
はじめはどうしても海のものに眼がいく。箸が進んでから、はて、右手奥にある小鉢の中味は・・・、総菜風の煮付らしいが。あれ、キノコが混ざっている。一つをつまんでみた。充分なこく、歯ごたえ舌ざわりとも申し分ない。大倉さんの小鉢はとっくに空である。しかしこのキノコ、栽培物では見かけない。すると・・・。二つめを口にしながら、女将さんに聞いてみる。「この白っぽいキノコ、名はなんて言いますか?」「えっ、あ、それはこの辺でダイコクって言って、昔からおいしいキノコで食べてますよ」
私が首を傾げ、なおもつまんで見ていると、女将さんはダンボール箱に入った調理前の落ち葉や土の付いたままのキノコを持ってきて、私の脇に置いた。それは・・・、紛れもなきハイイロシメジ。
新潟へ向かう直前、村人が私のアトリエに持ち込んできたのを、「毒キノコです、食べたら危険」と、したり顔で同定してきたあのキノコである。
ちなみに女将さんの言うダイコクとは、福の神の大黒天の意で、通称ホンシメジの方言名として各地で広く呼ばれている。私がいる八ヶ岳山麓でも同じ。越前浜一帯でもハイイロシメジをこう呼んでいるのは、茎の下部が太くふっくらとした姿形にもよるだろいが、なにより他の天然キノコの発生がとうに望めない時季に、しかも群生という恵みで授かる有り難さ、味の良さがそう言わせるのだろう。
女将さんはさらに、とても残念だという口振りで、こう言うのである。
「他にも秋のはじめ頃、おいしいキノコが食べられるんですよ。ゴマタケとかハエトリゴケと言って、あぶらは少し強いけれど-」
詳しく聞いてみると、それはなんとアトリエの庭にも生えるテングタケのことだった。ゴマとは傘にテンテンと付く白いイボ、あぶらとはこのキノコに含まれる神経系に中毒をひき起こす成分のことであろう。長野県下では、同じ仲間のベニテングタケとともに乾燥保存後、食用にすることが昔からよく知られている。しかし、一般的に二種は毒キノコの代表格とされる。
それでも二種を誤食したとしても、ときに酒に酔ったような幻覚幻聴、錯乱、嘔吐なとがあり、ほぼ二十四時間後には回復するらしい。別の皿にテングタケがあったとしても、女将さんには申しわけない、意気地なしで日頃から幻覚幻聴傾向のある私には、口にする勇気がなかったろう。キノコ談義で酔いの回った私を、大倉さんは興味深げに見ている。そして小鉢にまだ残っていた“ダイコク”を、私は一気に平らげた。
ここは八ヶ岳ではない、越前浜は「だるまや」の豊かな海山の幸を前に、郷に従ったのである。事実はキノコ図鑑より奇なり、であった。

 

ちなみにキノコの名称には、学名、和名、方言名と三つある。通常は和名で呼ぶ。女将さんがいうダイコク、ゴマタケは方言名だ。
わが国は小さな島国でありながら、方言名は無限といっていいくらい沢山ある。変化に豊んだ国土のせいか、小さな村の峠ひとつを越えた先では、同一キノコが違った名で呼ばれていたりする。経験的にいっても八ヶ岳山麓からして、呼び名では戸惑ったものだ。
方言が豊富ということは、それだけ土地の人々とキノコとの関係が、身近かで無視てきない存在だということだろう。食タケ、毒タケともにである。風や雨の呼び名が、全国で数千を超すというのと同じだ。列島はことばで成り立っている、といっても過言ではない。
新潟を訪れるたび、私はかねがね情報を得たいと思っているキノコがある。和名ドクササコ(毒笹子)、方言名はヤケドキン、ヤブシメジなどと呼ぶ。東北から北陸にかけ主に新潟をはじめ日本海側に片寄って分布し、韓国でも報告例があるというキノコである。発生地はタケやササやぶ、雑木林など。傘の径五~一〇センチくらい。傘の色は黄から橙がかった褐色で、開けばじょうご形になる。一見するとシイタケのようでおいしそう、いや、実際においしくにおいもよい。しかし、毒キノコだ-。
毒キノコは他にも沢山あるが、誤食すればそのなかで最も苦痛が激しく、地獄からの使者のようだといわれている。食後、数日から一週間後あたりに症状があらわれる。手足の先端が赤く腫れてきて、焼け火箸で突き刺されるような激痛。しかもそれが一カ月以上つづく-。
次にまた越前浜へ行く機会があったら、女将さんからぜひともこのキノコに関するはなしを聞いてみたいものだし、もし知らなかったら充分に注意を
促そうと思っている。
それにしても、病状が出たからといって、一週間前に食べたものを記憶している人間がどれだけいるだろうか-。そのため医師をはじめ医療に携わる人たちも因果関係にたどり着けず、長い年月、風土病の一種と思われてきた。今日も特に治療法はない、という。