「今あなたがいる、という奇跡 - 稲垣栄洋」生き物の死にざま、はかない命の物語 から

 

「今あなたがいる、という奇跡 - 稲垣栄洋」生き物の死にざま、はかない命の物語 から

 

その生存競争は熾烈[しれつ]を極める。
一斉にスタートを切った彼らは、長い道のりをゴールを目指して泳ぎ続ける。しかも、行く手にはさまざまな障害が待ち受ける。その障害を越えた先に、ゴールがあるのだ。
それにしても厳しい競争である。
勝者はただ一人。
銀メダルも銅メダルもない。たった一人の勝者以外は、すべてが敗者なのだ。

 

この物語の主人公は精子である。その体長は、わずか〇・〇六ミリメートルしかない。人間の場合、一回の射精で放出される精子は、二~三億個と言われている。これに対して、ゴールで待ち受ける卵子は一個である。
勝者になるのは、二~三億分の一の確率・・・。日本の人口が一億二〇〇〇万人ほどだから、これは宝くじどころか、日本人でただ一人選ばれるよりも、さらに低い確率だ。
たった一人の勝者を決めるレースは困難極まる。
膣内は病原菌の侵入を防ぐために、粘液を出している。しかも、侵入した病原菌を殺すために粘液は酸性に保たれている。
この酸が、精子にとっても障害となる。酸の中で精子は思うように前に進めず、多くの精子はここで動けなくなってしまう。
この障害をたった一個の精子の泳力だけでくぐり抜けることは難しい。精子たちは群れを作りながら泳ぎ、協力しながら道を切り開き、子宮の内部へと進入していく。
中には必死に泳ぐ他の精子の上に乗っかって、ずるをしようとする精子も現れる。他の精子に乗っかられた精子はいい迷惑だ。スピードが落ちてレースから脱落していく。もちろん共倒れだ。
途中でレースに参加することをあきらめて、他の精子の前進を邪魔し始める精子も現れる。
意識はないはずなのに、どういうわけだか個性的である。まさに熾烈な人間模様を見るようである。
しかし、精子卵子が受精をして、初めて生命が宿るから、受精していない精子は生きている存在ではない。
精子には何の意思もないはずである。それなのにこの精子たちの人間くささはどうだ。いったいどのような仕組みになっているのだろう。
無事に子宮内に進入できる精子は、わずか三〇〇〇個。最初の障害を突破できるのは一〇万個に一個の精子だけなのだ。
子宮内に進入した精子たちには、容赦なく次の難関が訪れる。
何しろ広い子宮の中から、卵管の小さな入り口を見つけ出さなければならないのだ。
しかも、彼らの探索をはばむものが現れる。
命を宿すためのパートナーとはいえ、女性の体にとっての他者の遺伝子を持った精子は異物にすぎない。そのため、異物を認識した白血球が、一斉に襲いかかってくるのだ。
白血球をやり過ごし、なんとか卵管の入り口を見つけた先にも試練はある。
かつて大型のクイズ番組「アメリカ横断ウルトラクイズ」は、勝負の決め手は「知力・体力・時の運」と言われた。知力と体力だけでなく、勝ち抜くためには運が必要だと言われたのである。
精子のレースでも強運が試される。
卵管の先は、行く手が二つに分かれている。精子のレースのゴール、卵子である。
この分かれ道のどちらか一方のみに卵子が用意されている。
もちろん、何のヒントも手がかりもない。運を天に任せて進むより他にないのだ。

 

運がよければ、卵管の奥では卵子がレースの勝者が決まるのを待っている。
ここまでたどりつくことのできる精子は、わずか一〇〇個ほどであるとされている。いよいよ最後の戦いである。
卵子の外側は固い殻で守られている。精子酵素を出して、この殻を破っていく。最初にこの殻を破って卵子に進入できた精子が勝者となるのだ。
ついに決着のときである。
殻を破った一つの精子が、卵子の中に潜り込んだ。
すると突然・・・卵子は受精膜というバリアを瞬時に張り、まわりについていた他の精子の進入をはばむ。
勝者が選ばれたのだ。
勝者をたたえるかのように、精子を受け入れた卵子細胞分裂を開始し、ゆっくりと回転を始め、子宮に向かっていく。
愛のダンスを踊っているようにも見える。宇宙のどこかで生命の惑星が誕生したようにも見える。神秘的な光景だ。
無数の敗者たちは、レースが終わったことなど知るよしもない。
彼らは、力の続く限り泳ぎ続ける。卵子に潜り込むかのようにして、子宮の壁に頭を潜り込ませようとするものもある。精子が動ける時間は四八時間から七二時間。やがて力尽きて動けなくなるのだ。

 

二~三億の精子が参加したレースである。さまざまな障害が襲いかかるサバイバルレースである。
もし、あなたなら、こんな厳しいレースに、勝ち抜く自信があるだろうか。
しかし、間違いなく、あなたはこのレースに勝ち抜いた強運な勝者である。
そして、あなたはこの世に生を受けた。
これ以上に、何を望むものがあるだろうか。

精子の物語と言うと、男性の話だと思うかもしれない。しかし、そうではない。あなたが女性であったとしても、遺伝子の半分は精子からもたらされる。
精子の中にはX染色体を持った精子と、Y染色体を持った精子とがある。女性の持つ卵子は、必ずX染色体を持っている。X染色体を持った精子卵子にたどりつけば、受精卵は女性となる。一方、Y染色体を持った精子卵子にたどりつけば、受精卵は男性となる。
こうして、勝ち抜いた精子卵子の受精卵として、あなたは誕生した。
もしも、別の精子が一番先にたどりついていたとすれば、あなたはこの世に存在しない。
別の誰かが、この世に生を受けていたことだろう。

 

勝者がいれば敗者がいる。
あなたという一人の勝者の陰には、二億を超える敗者がいる。
私たち人間の認識では、精子卵子が受精をして、初めて新たな生命が宿ると言われる。
精子は遺伝子を持ち、生きている細胞である。しかし、それはたった一個の細胞にすぎない。まだこの世に生まれていない存在だから、人間として生きているとは言えない。
生まれてさえもない。生きる苦しさも哀れさも知らない。
しかし、彼らは懸命に泳ぎ抜いた。そして、敗れ去っていったのである。
それでも動けなくなり、消滅していく彼らは「死んだ」という称号さえ与えられない。彼らはこの世に生まれることさえ許されなかった存在なのだ。
このレースを制して、あなたは生まれた。そして、この世の中を生き、そして死ぬことができる。
スポーツの試合などでは、敗れ去った者が、「自分の分まで頑張ってくれ」と勝者に思いを託す。そんなたくさんの敗者たちの思いを託されて、一人の人間が生まれてきた。
今生きているのは、そんな幸せなただ一人の勝者なのだ。