「ツキの実在 - 畑正憲」ムツゴロウの大勝負 から

 

「ツキの実在 - 畑正憲」ムツゴロウの大勝負 から

とうとう私は一年近く無人島で暮らしてしまった。その実態については、テレビや雑誌でこと細かに紹介されたかのようであった。
ところがどっこい、大望を抱えている私は取材陣の接近をそれほど長期間許可しはしなかった。たいていの場合一日だけでお帰り願ったし、長くても三日間と決めていた。人目にさらしてはならぬ崇高な研究を抱えているので、長居されるのは困るのである。
その一つが、ツキの研究。
いやしくも勝負を争うほどの人なら、運とかツキとか呼ばれる不思議な現象をバカにしないがいい。たとえば技術は未熟であっても、ツキの女神さえ従えておれば勝負は勝てるのが普通である。
そこで私は、これを飲めば驚天動地、ツイてツイてツキまくるという薬物の研究に着手した。
薬の名前はいくつか浮かんだ。
「ツキマクール」
「ツキビタン」
ツキというのは、理論を超える現象でもある。またぞろ初歩の確率論を引合いに出すなら、無限回サイコロの丁半に賭けると、勝ち負けは同数となり、ドロンゲームになるかテラ銭だけ損するか、とにかく儲けにならないことは確実である。
しかし、ここにツキというものが存在すれば、冷たい数字が介入出来なくなる。信じられる事件が突如出現する。
十年程前のことだったろうか、人の流れに押され、一人の日雇い労務者がふらりと後楽園の車券売場の前に立った。彼は何が何だかわからなかったが、ともかく第一レースの車券を買った。それが的中。払戻し。それで次のレースを買う。するとまたこれが的中。
とうとう最終レースまでのすべてを当て、バラ銭が百万近くの金になった。
これは実話である。おそろしいほどのツキは恵まれれば、確率なんてどこかへ吹っとんでしまう。サイコロを六回振った結果、
丁、丁、半、丁、半、丁。
という順序に目が出たとしよう。その目についていけば一〇〇パーセント勝てるではないか。
この稿を書いている今、全国の勝負はが争われて場所で、
「ツイていない。まったくツイてない」
とか、
「しめしめ、ツキがまわったぞ」
と、何万人が呟いていることだろうか。一日という単位で限ったとしても、ツキについて交わされる人類の会話は、たぶん人類の生存数より多いと思われる。
だから「ツキマクール」が完成したら、地球上で最も売れる商品になるだろう。エンキリ、デノミどこ吹く風、発売寸前に売り切れとなり、薬の販売権をてに入れた会社はツキマクールに違いない。

こういう重大な秘密を明かす気になったのには、すこしばかり理由がなくもない。私は今朝、氷の海を運ばれてきた新聞で平林たい子さんがなくなられたことを知ったが、彼女と私の運命とは妙な所で触れ合っていると思えるからだ。まあ聞いていただこう。
大学を卒業した頃から、私は文筆で生活したいと願っていた。それは単なる願いであり、かなりの習作は貯えたものの、それらを売ろうと試みたことは一度もなかった。いいのか悪いのか知らないが、生原稿を抱えて売りこみに回った経験は私にはない。
卒業してからの十年は、多事多難で、生きてゆくのがやっとだった。家の内外にも不幸が連続して起こり、私の父、妻の父が若くして相ついで他界するかと思えば、今度は私たちが交代で入院する始末だった。
そんなある日、妻が銭湯から興奮して帰ってきた。
「あなた、驚かないです。まったくひょんなことになったのだから」
「………」
「となりに、そのなによ、洗い場でね、となりに女性が坐ったの」
「当たり前だ。女湯には女しかいないはずだ」
「それもそうね。その女性がね、赤ちゃんを連れていたので、抱いてあげたりね、それからお喋りをして背中を流しっこしたりしてたらね、家を借りてくれないかということになったのよ」
「へえ」
「善は急げでしょ。帰りに寄ってみたら、昔の八畳間と広い玄関、台所、五畳があって、庭が広い一軒家なのよ。その奥さんは二階に住んでいるけど、下は貸してもいいっていうのよ」
「面白いな」
「しかもよ、家賃があなた、一万円の半分でいいっていうから、もう決めてきたわ」
その頃私が住んでいた家は、友人たちになめくじ屋敷と呼ばれていたあばら家で、家賃は格安だったが、それから先二年ともたぬと予想されるほど老朽化していた。何もかも腐ってゆるみ、猫が歩いてもゆさゆさ揺れた。
安くて広い家が渡りに舟である。私たちはその週のうちに引越しを完了した。
ところが、妙なことに、家移りを済ましてからというもの、家族の中に病人が出なくなった。と同時に、少年向きの小説の依頼が向こうからやってきた。
それも時を同じくして二冊。
私は一応こちらの事情を述べた。
「まったくの素人ですよ。それは書きたいのは山々ですが、まともな作品を一度も発表したことはないのですよ」
それでもいいとの返事だった。
何故、どうして、私が選ばれたのか今もってわからないが、ともかく書いたら本になってしまった。と、それを脱稿した直後に、偶然町で会った知人に、またまた単行本の執筆を依頼されてしまった。
その知人はテレビの企画屋で、その何年か前、何かの会議で一緒になり、シナリオを共作したことがあっただけだった。会った時、名前さえ思い出せないほどの浅いつき合いしかしていなかった。
彼は言った。
「急いでるのですが、何か書きませんか。期間は半年。やってみなさいよ」
それから今に至るまで、原稿の注文が切れた日がないのが自分でも信じられない。私はキツネにでもつままれた感じがして、家主である二階の奥さんにお礼を述べた。すると奥さんがこう言ったのだ。
「この家は文章を書く人には運の向く家だそうですよ。そもそも平林たい子さんの持家だったのを主人の会社で買い、主人が重役になった記念として払下げて貰ったものですから。たい子さんも今あなたが書きものをしている場所に机を置いて、庭を見ながら名作を書かれたそうですわ」
私の文章は未熟で、平林さんの足元によれないところで低迷しているが、残していただいた運をいただいた感じがその時して、得体の知れぬ戦慄が体を突抜けた。
ツキとか運は確かにある。そう確信したのはその時以来である。
だが、ツキを呼ぶ薬が発明出来るかどうかは、今後の精進によるところ大であろう。