「おいしい仔犬 - 戸井田道三」鶴見俊輔編 老いの生きかた から

 

「おいしい仔犬 - 戸井田道三」鶴見俊輔編 老いの生きかた から

 

お医者さんはカルテにむかって何をどんなふうに書くのであろうか。既往症や病状や治療法・投薬など、自分のメモのためだけでなく、医学的知識のある人が見たら誰にでもわかる記述をしているにちがいない。さもないと、幾年間保存しなければいけない、などという法律できめられたことが無意味になってしまう。必要のない子宮摘出の手術をやって不当な利益をあげていたという病院の存在が伝えられた。その手術が医学的にまちがっていたかいなかったかをきめるのは、フィルムやカルテなのだろう。もしカルテを第三者が見ても何のことやらわからない記号であったら、判断をするための資料にはならない。
しかし、きめられた定則どおりのカルテだったら、書いている当の医師にとってはたいした役にたたないものかもしれない。
肛門病の名医がいて、手術をうけた患者が数年ぶりでまたぐあいがわるくなったので、診察してもらった。おひさしぶりですと挨拶をした顔を見ても、知っているのか知っていないのかわからなかった名医さんは、どれ見ましょうか、といって患者の肛門を見たとたんに「いやアしばらくでした」と挨拶をしなおされた。という話はただの笑い話であったのかどうかを知らない。だが、実際にあった話としたところでおかしくはない。おそらく臨床医学というのはそうした側面をもっていると思われる。つまりかの名医は過去のカルテを見ただけでは、今の患者を具体的に思いうかべることができなかったのだ。
言葉や絵や写真や記号がどれほど精密になっても、網の目から洩ってしまうものがある。言葉などの記号がうまく洩ってしまったものをすくいあげるかたちで記憶をよみがえらせればいいのだが、なかなかうまくいかない。
特に思いつきという種類の思考についてはカルテがとりにくい。

私は「思いつき」について興味をもっている。ふと思いついたことをひろいあげて思いつくままに書く。そして、そのことを自分でたのしんでいる。
こういう思いつきは、多くのひとの書いたものを読んでいるとき、ぱっと思いつくのである。ひとの文章から帰納されたり演繹されたりして思いつくのではないが、何か触発されて出てくるのではあるらしい。それは、論理的関連や因果関係などのように、言葉でたどれるものではない。だから「思いつき」というのである。それだけまた、ただの思いつきにすぎない、などと軽くあしらわれてしまう。
軽くあしらわれがちだが、演繹や帰納で出てくるものではないだけに「思いつき」はかえって重要だといえないこともない。演繹や帰納は医者のカルテのようなもので、一般的ではあるが、個人の何かが洩ってしまう宿命をもっている。
「思いつき」は文脈から離れているから思いつきなのであって、洩ってしまうものからの働きかけと受けとれる。
そして困ったことに、文脈から離れているから記憶の体系に組み入れにくく、したがって「思いつき」はすぐ忘れられてしまう。
私は、ひとの著わした本を読みながら、ほかのことを考えはじめることがある。目は活字をひろっているが頭は別のことを考えて、どんどん思考が脱線してしまっていることがある。しばらくして気がついて、どこらへんで脱線したかとあと戻りして、また読みかえしてみる。そのうち、いつのまにかまた脱線して別のことを考えはじめる。こんなとき実は自分にとって大事な「思いつき」があるのだ。これは忘れてはならぬと、チョッとありあわせの紙にメモしておく。
しかし、あとでそのメモを見ても何のために書いたのだったかわからなくなってしまうことがしばしばである。

先日は、書きそこないの原稿用紙の裏に、「おいしい犬、幽玄」と書いてあるメモを、むずかしい哲学の本のあいだに見つけた。さて何のことだったろうと、いくら考えてもわからなくて、やはり「思いつき」は忘れるものと思い知った。思い知ったものの、こんどはそれが気になってしかたがない。なんであったかと、ことごとにひっかかって、心の安らぎを妨害してくる。ほとほと弱ってしまった。
ところがよくしたもので、何の脈絡もなく、ふと思い出すこともある。何の脈絡もなくというのはいいすぎで、脈絡はあるのだが論理的に思考のあとをたどれないというべきかもしれない。とにかく苺にミルクをかけて砂糖を加え、それをスプーンでつぶして口のところまで持ってきたとたんに思い出した。ストロベリィの新鮮なにおいが思い出させたのだが、論理はもちろん心理的にもつながらない。
昔、私の家に小さな犬を飼っていたことがある。友人が三つくらいの男の子をつれて遊びに来た。その子が小さな犬をダッコしてひどくかわいがった。「この犬おいちいネ」と彼は言った。かわいいという言葉をまだ知らなかったのかもしれない。その場の雰囲気や情況からいって「おいしい」というのはまことに適切であった。まわりにいたおとなどもは皆笑ったが、これ以上にうまい表現は不可能とさえ思われた。
笑ったのは「かわいい」というべき情緒を味覚でいった錯誤に対してであった。しかしおとなだってつねにそのような間違ったいいかたはしている。たとえば「にがみばしったいい男」とか「少し甘い女」などいくらでもある。但しこれは常用されているあいだに味覚の応用とは認められなくなった。やはり適切な言表として容認されたのであろう。つまり視・味・嗅・聴・触などの感覚器とそれに対応する言葉とをつなぐ回線がまちがった方が適切だというばあいもありうるわけである。
それが可能なのはいわゆる五感がひとりの身体に統一されているからで、五感の各々が別に感じられると同時に、いっしょに働いているからにちがいない。わかる(了解)というのは分かるだから、感覚器が受容したのを分類して統一的に秩序づけることだった。その分かれるべきものが混乱をおこして「この犬オイチイ」などというのは、たしかにまちがいである。しかし、まちがえることによって分類以前の混沌にさかのぼることにはならないであろうか。混沌をつかまえるためには言語の明晰以前にさかのぼる必要があり、それがあるから身体の自発性が共感覚を刺戟する作用をするのではないだろうか。
白妙の袖のわかれに露おちて
身にしむ色の秋風ぞふく
定家の歌である。『新古今』の恋の部にはいっている。「袖のわかれ」は一夜ねて朝の別れをさしている。露は涙であろう。白妙とあるに対する「身にしむ色」だから涙の色はおそらく紅色などという言葉を暗示していよう。ただそういわないところが歌のかなめである。色がしみるのは染めることにともなったわかりかたであった。それが、「身にしみる」ことに変化してきたこと自身が、感覚的な共鳴と錯誤とを証明している。
やはり思いつきは忘れやすい。けれど思いつきには創造的な何かがある。それを忘れてはこまるのである。