「猫に学ぶ - 原田宗典」楽天のススメ

 

「猫に学ぶ - 原田宗典楽天のススメ

珍しく子供二人を連れて、吉祥寺に出た時のことである。
カミサンが野暮用を済ませる三、四時間の間ぼくが面倒をみる約束だったのだが、やけに暑い日だったので家の中に閉じ籠もっているのもどうかと思われ、気分転換も兼ねて街へ出たわけである。どこへ行きたい、と尋ねると二人の子供は口を揃えて、
「デパートがいい!」
というので、駅から真っ直ぐに東急百貨店へ向かった。お目当ては言うまでもなく、玩具売場と屋上である。東急百貨店の屋上にはちょっとした乗物やゲームセンター、それからペットショップがある。ぼくら父子はエレベーターで屋上に上がると、まずペットに入った。檻がずらりと並んでいて、様々な種類の犬猫がその中でワンワンキャンキャンニャーニャー鳴いているのが聞こえてくる。檻の前には結構な人だかりができていて、みんな目を細めて檻の中を眺めている。ぼくの子供たちもご多分に漏れず犬猫が大好きなので、すぐに檻の前にへばりついて、中の子猫や子犬を構い始めた。
「あたしこの猫がいい!この猫すごく可愛いよほら!」
六歳になる娘が気に入ったのは、アメリカンショートヘアの子猫だった。そばへ行ってどりどりと眺めると、なるほど確かに可愛らしい。まだ掌[てのひら]に乗るほど小さくて、でも白と黒のだんだらの模様がいっちょまえについていて、きょとんとした顔でこちらを見ている。子猫の可愛らしいの秘密は、このきょとんとした顔にあるとぼくは思う。おそらく大きな瞳と大きな耳が、その印象を強めているのだろうが、すごくあどけない。
「可愛いねえ。触りたいねえ」
ほとんど反射的にぼくがそう言うと、娘は力強くうんうんとうなずいた。猫というのは何故か眺めていると触りたくなってくる。背中を撫でたり、耳や尻尾を引っ張ったり、脚を軽く掴[つか]んでやりたくなる。ようするに何だか放っておけないような気分にさせるのである。しかしこのペットショップの檻には、厚手の透明なビニールが貼ってあり、直接犬猫に触れないようになっている。娘はビニールとビニールの隙間から、人差指の先っちょだけ差し入れて、子猫の体に一瞬でも触れたようと躍起になった。しかし子猫の方は、気まぐれを起こしたのか急につまらなそうな顔をして、その場で丸くなって寝入ってしまった。これを見てぼくは、
「いいなあ猫は.....」
と思った。すごく自分勝手で、気儘で、気持よさそうである。しかもそういうふうに振るまえば振るまうほど、人間たちは却って猫を可愛らしいと思ってくれる。猫は予め気儘に振るまうことを許されている-そこが何とも羨ましい。
これが犬だとそうはいかない。確かに犬も可愛らしいのだが、猫のように気儘に振るまうことは許されていない。もし犬が一日じゆう怠惰に格好で寝転がり、主人の口笛にも応えず、前脚で顔ばっかり洗っていたりしたら、その犬は間違いなく「バカ犬」と呼ばれてしまう。犬は全身全霊で人間に奉仕し、言いつけを守り、必死で愛嬌よく振るまってこそ犬。犬の可愛らしさはそこにある。と犬好きの人は思うかもしれないが、同時にそこが犬の悲しさでもある。
そういえば猫には“明日のことを考える能力”がない、という話を聞いたことがある。ぼくの大好きな詩人長田弘の『猫に未来はない』という本の中に、そんなことが書いてあったと記憶するが、実際に猫を眺めているとさもありなんと思えてしまう。猫は明日のことなんか考えないから、ああいうふうに勝手気儘に振るまえるような気がしてくるではないか。明日を無視して今この瞬間だけを気持よく過ごす-何ちゆう羨ましい心境だろう。ある意味で童話『アリとキリギリス』のキリギリスみたいだが、猫の羨ましいところは、キリギリスと違っていくらサボっていても、そのサボっている様子自体が可愛らしく見えてしまう点である。ようするに怠惰であれば怠惰であるほど、
「かわいー」
なんて言われちゃうわけだ。くーッ、羨ましいーッ!やっぱ次に生まれ変わる時は猫がいいかな、なんて考えてしまった。