「やっぱり男はつらいよ(抜書) - 渥美清」きょうも涙の日が落ちる、渥美清のフーテン人生論 から

 

「やっぱり男はつらいよ(抜書) - 渥美清」きょうも涙の日が落ちる、渥美清のフーテン人生論 から

 

寅さんという男とボク

 

ウン、そうね。一本映画を撮ると、いろんなひとからファン・レターというのか、手紙をもらいますね。「まあ、私の話を聞いてください-」と、自分のことを書いてくる。ひと、それぞれが人生を持っているんだな。
わりとね、ウチで、ジッと坐って仕事をしているひとからの手紙が多いね。昔風にいうと、坐業というやつ、そう、ハンコ屋さんとか、洋服屋さん。精神が、セッタをはいて、半ソデのダボシャツなんか着てさ、そういうひとたちって、どこか寅さんに似てるんじゃない?発想が。昼まっから電気つけて一日仕事をやっつさ、フッと気づいて外を見るってえと、夕方になっちゃってたとか-精神が、こう、江戸川の堤を、ツ-と走っているひとでしょうね。そういうひとから、手紙がくるんです。長い手紙で、二十枚くらいね。これは、ボクの解釈だけど、けっして、こう、部屋の中に熱帯樹なんかあってサンサンと太陽があたっている。というウチには住んでいない人-成城学園や田園調布の住人じゃないね。ボクなんか、思っていることをペラペラしゃべっちゃうほうだけど、どうなのかな、ボクに長い手紙を書いてくれるひとって、あまりしゃべらない無口なおじさんじゃないかなあ。内容もね、今は、こうしているけれど、十いくつのとき炭坑入って、朝から丸太ン棒でなぐられて苦労したとか、ね、苦労話が多いなあ、如何に自分は義侠心に富んだ人間であるとか、メンメンと書いてくるワケ。ひとに金かして、大変な負債をしょって、おまけに女房はアイソつかして逃げた。で「いまは一人よ」なんていぎがってるひと。利用されたひとですよね。ま、オロカなひと。でも寅ちゃんの次元から見ると「イイやつ」なんだな。ウン、そんな人が多いみたい。
なぜウケたのか。そうね。やっぱりホッとするんじゃないかな。あれ観ると、ね、大なり小なり、思いあたるフシがあるんじゃない?ひとには言えないけれども、寅さんみてると「ウン、そうだ、こういうこと、オレにもあったなあ」みたいな、ね。
どうかな、寅さんって男、ボクに似てるかな。ウーン、ある、と思いますね。でも、あの通り全部じゃない。あの通りだと性格破たん者だよね。だから、演るとき、ギリギリの線で演ってる。まあ、もし、ボクは役者という商売がなかったら、具合のワルイ人物になっていたと思うな。そう、寅さんみたいな。その、ヘンな自信みたいなものはある。だから、ボクにとってはウマイなりわいがあったということですよね。
狂って演ってますからね。あれは、やはり、ワンカット、ワンカット狂った状態に自分をもっていって演っている。こう、熱気が伝わってくるでしょ。どこか、ほんまもんのところがある。またそれを出すためには、狂わなきゃやれない。こう、年寄りがいろりばたに坐って自分の来し方行く末を、ゆっくりと語っているのとは違うんだ。ね、映画観ててもわかるでしょ。寅がね「エ、何か言った?」「エ、またおれのこと何か言ってたな」なんてね、コンプレックスの入りまじった、それでいてオレは田舎者じゃない、「こっちは町っコよゥ」という、あの狂ったような言葉のやりとり。芝居だけというダンドリじゃ、できないんだな。
池ン中に泳いでいるコイはね、たとえどんな不器量なコイでも、コイでなくちゃダメなんだ。モグラだったら、池ン中に長い間、漬けられてたらダメなんだよ。だから、やはりオレん中にも、車寅次郎の中にも、同じ魚類であるという、同性質な、逃げることのできないものがある。オレは、けしつ、鳥ではないモグラでもない、ジャボンと池につけられて初めて、ピラピラピラピラ泳いでいる魚なんだよね。けして、鳥が魚を演じているんじゃないんだね。やはり、魚が魚を演じているという、スゴさはあるんじゃないかねえ。もっとも、ボクの場合は、渥美清を観るんじゃなくて、山田洋次を観ているんだねえ。映画を観に行くと。
演出のスゴサ、ボクはやはり山田洋次という監督を観ちゃうんですね。山田洋次にウナされて、ね、たくみに、こう人形を使ってる。というカンジだな。
シリーズですからね。むつかしいですよね。だから、どっかで、お客さんに対して優しさがないと、いけないんだよね。思いやりって言うのかね、ウン、期待に応えるというのかな。