「五代目菊五郎と人力車 森銑三」中公文庫明治人物閑話 から

 

「五代目菊五郎と人力車 森銑三」中公文庫明治人物閑話 から

 

 

「文明開化」の一語が、時代の合言葉となっていた頃のことである。役者の楽屋入りも、駕籠から人力車へと変った。それは自然の推移だったというべきで、五代目尾上菊五郎も、山高帽を冠って、外の役者たちと同じく、人力車を走らせて、その楽屋入りをするようになった。そしてその当初は、何の気なしに乗っていたのであるが、凝り屋の菊五郎のことで、人力車では、両手をどのようにしているのが恰好がいいのだろうかと考えたら、それなことが存外むつかしい。いろいろに頭をひねったけれども、よい工夫がつかない。この上は、外の連中がどんな形で乗っているのか、それを見た上のことにしようと一決した。
一日、誰よりも早く、新富座へ楽屋入りした菊五郎は、部屋に入るなり、窓の障子を開け放して、外に見入っていた。
最初に来たのは、外ならぬ団十郎だった。その団十郎は、車上で両手を組んで、悠然とした態度でいる。それがいかにも団十郎らしい。なるほど腕組みも悪くないなと、菊五郎は感心した。しかし堀越が腕組みをしているからといって、そのまねをして、何だ菊五郎団十郎のまねをしているといわれるのはいやだ。おれはおれで、別の恰好をしなくてはならぬ。腕組みをするわけには行かねえと、菊五郎は思い返した。
そこへ寿美蔵が遣って来た。見るとこれが顎鬚を撫で撫でしている。何だ、官員臭い様子をしやアがって、面白くもねえ。菊五郎は心の裡で反撥した。
次に来たのは権十郎だった。よく見ると膝の上に、紫縮緬の服紗などを敷いて、その上に両手を揃えて置いて、悪く納まっている。ああ気障だと、菊五郎は顔をしかめた。これも落第ということになる。
その次には新蔵が来た。これはまたどういうつもりなのか、両手を前に列べて出している。まるで気の弱い壮士といった恰好だなと、菊五郎は噴き出した。
どれもこれもなっちゃいねえなと、舌を打つ。
今度はと思っていると、福助が来た。福助は人気俳優だものだから、女子供に顔を見られるのが厭なのだろう。車上で新聞を読んでいる。それはそれでいいかも知れないが、おれはそんな用心をするには及ばねえと、菊五郎は思った。
するとそこへ伝五郎が来た。これはパイプを銜えるえており、時々灰を落としたり、煙を吐いたりしている。その様子が自然でいい。多少の愛嬌がある。
そうだ、おれもあの恰好でいくとしようと、菊五郎は肚を決めた。
決心のついた菊五郎は、すぐに伝五郎を部屋に呼んで、わけを話して、お前のあの乗り方を、向う五年間おれに譲ってくれないかと切り出した。
明からさまにそういわれて、断るわけにはいかない。ようがす、お譲りしましょうと、伝五郎は即座に承諾してくれた。菊五郎は、初めて安心した。
ところで、菊五郎の方はそれでよいとして、伝五郎は人力車の上で煙草を吸うことが出来なくなってしまった。好きな煙草を我慢しなくてはならないと思うと、それだけのことでも辛い。はて、どうしたものだろう。もう一つ何か新発明の乗りかたをして、それを五代目に持ち込んで、パイプ銜えるえと交換して貰わなくっちゃならねぇ。何ぞいい工夫はないものかなと、伝五郎は目下考案最中である。

 

 

これは明治二十五六年頃の新聞で見つけた雑報の記事であるが、その新聞の名も日附も書き落しており、もう一度調べ直すわけにはいきかねる。凝り屋の菊五郎の逸聞として面白いので、大要を書き留めて置いた。それを書き改めたのであるが、考え直して見ると、この話には果してどの程度の信頼性かあるのだろうか、少々疑わしくもなってくる。それについて思出されるのは、明治の早い頃の役者のところへ、時計を買わせようとして、見せて廻る話のあることである。
その時計を見た役者は、一人一人が、よい時計だといって褒めて、欲しそうな様子をする。けれどもおれが買おうとはいわない。何とかかとか故障を述べて、結局断る。そこにそれら一人一人の個性の出るところが面白いので、最後に何とかいう役者のところへ持っていって見せると、これはいい時計だ。何、幾らだと。おれが買って遣るから、置いていきねえ。これを七つ屋へ持って行ったら、幾らくらい貸すだろう。その金を持って賭場へ行って、一儲けして、それで払ってやる、という。
持っていった男は恐れを成して、早々に時計を引っ込めて、這々の体で引き下がるというのだった。
その時計の話は、誰かの創作だったに決まっているが、話としては出来がいい。菊五郎と人力車との話も、ひょっとしたらその時計の話に倣って、何人かが拵えたのではあるまいか。話としての面白さは、時計の話の方にあるにもせよ、人力車の話の方も、凝り屋の菊五郎の性癖を巧みに捉えている点で、これはこれとして棄てられぬ。
あるいは菊五郎のことだから、外の役者たちの乗りかたを参考に見た程度のことがあって、それに尾鰭がついて、右の一話となったのではなかったかと、考えられぬこともない。
古人の逸事には、一つの話があの人にもこの人にもついて廻っていたりするし、前々からある話の形が変って附随する場合もある。人物の研究家は、その点に留意しなければならない。
面白過ぎる話には、警戒を要する。菊五郎と人力車の話など、面白過ぎるというほどではないが、なおかつ警戒を要するものがありそうであるとしておこう。そのつもりで一読を願うこととする。