「代理本能論 - 日高敏隆」日本の名随筆別巻90人間 から

 

「代理本能論 - 日高敏隆」日本の名随筆別巻90人間 から

 

手もとの雑誌や新聞をみると、人間は闘争本能、破壊本能、種族維持の本能、育児本能など、いろいろな「本能」をもっているとされている。戦争の本能なるものも口にされ、さらに「生の本能」はまだよいとしても、「死の本能」ということばも散見する。はたして人間にはほんとうにそのような「本能」があるのだろうか。
そもそも本能を定義することはきわめてむずかしいが、とにかく本能というのは行動と切離せない概念である。人間をも含めて動物の行動のごく基本的なモデルとして、ローレンツの古典的なモデルがある。ここに一個の水槽があり、上からたえず水が流れこんで水槽内にたまる。このたまった水がいわゆる衝動にあたる。水槽の下部には蛇口が一個あり、それに栓がついている。適当な刺激によって、この栓がひっぱられてぬけると、蛇口の水が噴き出す。この水の噴出が行動を示すものとするのである。
水が噴出するかどうか、つまり行動がおこるかどうかは、衝動の大きさ(水槽内の水圧)と刺激の強さによってきまる。しかし、どんな型の行動がおこるかは、蛇口の形によってきまる。同じ衝動にもとづく同じ種類の行動でも、その型は動物の種類によってちがう。つまり、動物の種類によって蛇口の型がちがうのである。多くの動物では、蛇口は生まれつき完成されており、その型は遺伝的に決まってしまっていて、同じ種類の動物は、同じ条件のもとではほとんど同じように行動する。学習する必要はほとんどなく、たとえその必要が多少あったとしても、蛇口をすこしけずって変型する程度のもので、型の本質的な変更には至らない。このように、種によって一定の、遺伝的に型のきまった蛇口にしたがった行動がおこる場合を本能というのが、動物行動学での共通見解であるようにおもわれる。
このような観点に立って人間をみたら、どうなるであろうか。書店にいくと、育児百科のような本や別冊付録がたくさんある。もし、人間に育児行動のための蛇口が遺伝的に備わっているのなら、こんな手引書はいらないだろう。子供を産んだ女性は、何一つ教わらなくとも、本来もっている遺伝的蛇口にしたがってすらすらと育児ができるはずだからだ。しかし現実にはそうでない。人間には、動物行動学でいうような育児本能はないのだと考えたほうがよい。あるのは育児衝動だけなのである。
いわゆる種族維持の本能なるものについても同様である。ほんとうをいえば、種族維持のためには複数の本能が必要なのであるが、ふつういわれているのは性本能だけらしい。しかしこれまた人間ではあいまいなもので、だれでも性衝動はもっているが、その処理については意図された、またはされない性教育が必要なことはもはや明らかなことである。

摂食や闘争という個体維持的な行動についてもまた同じである。オオカミどうしが闘うときは、闘いのやりかたばかりでなく、負けたほうが降伏し、勝者がそれを許すルールまで遺伝的に決まっている。人間では時代により人により、まったくさまざまであり、遺伝的なものはありそうもない。「生の本能」となると、生きることすべてをさすことになって、まったくとらえどころがないし、「死の本能」に至ってはどのように死ぬか生まれつき遺伝的にに知っている動物があろうとは考えられない。まして、あくまで個体の生理学に関する問題である本能をもって戦争を説明しつくすのは、論理の誤りもはなはだしい。
要するに、人間には本来の意味での本能など、ほとんど存在しないのだと考えられる。一般に動物の脳が発達し複雑になるにつれて、固定化した遺伝的行動型の占める比重は減少し、学習によるものの比重が増す。類人猿でも育児本能がほとんど欠如していることが、実験によってたしかめられている。人間について日常安易にいわれている「本能」は、すべて衝動といいかえられるべき性質のものである。このことはフロイトの文脈からみても明らかなのであるが、本能という言葉の魅力は依然おとろえているようにはみえない。
実際には人間の行動は、遺伝的制約からかなり自由であり、その蛇口の多くは社会や文化の影響のもとに作られるものと考えられる。その点を見のがして安易に本能という言葉を使っていくと、いつのまにか、この言葉のもつ雰囲気にひきずられて、社会の制約から解き放たれた人間本来の姿という幽霊をつくりあげることになろう。本来的なものはむしろ衝動であり、しかも現実にそれを満たす方法すなわち行動の型のほとんどが社会と文化の中でしか形成されえないものである以上、「社会のくびきから本能を解放する」ことは単なる幻想にとどまる。
けれど、人間の行動もじつは動物的なレベルからそれほど脱しきっているわけではない。たしかに人間には遺伝的に決まった一定の行動がごくすくない。しかし社会のコミュニケーションという点では、これではいちじるしく不便である。そこで社会的に、とくに支配者の暗示のもとに一定の行動型が設定され、それがしきたり、制度、あるいはいわゆる良識として確立される。すると人間の行動型が遺伝的制約から自由であるという、まさにそのことのために、多くの人々にはいつのまにかこの型の蛇口がはめられてしまう。
もちろん思想や発想の形式にも相応する蛇口(良識なるものの大部分はこれであろう)がはめられる。思考と行動の蛇口は相補って、しばしばどちらもきわめて固定的なものとなりがちである。そして人々がこの蛇口を通して行動していることを意識しないという点でも、そこには動物における本能とたいへんよく似た性格があらわれてくる。つまり文明は本能を抑圧するのではなく、本来存在していなかった本能に代る、代理本能ともいうべきものを作り出すのである。その結果いささか逆説めいてくるが、人間は文明によって動物から脱するのではなく、むしろ逆に動物のレベルにひきおろされるのである。もしそこから脱却したいとのぞむなら、ありもしない本能の解放をめざすのではなく、この代理本能とその産物をたえず否定してゆかねばならないであろう。