「動物を“仲間”と感じる瞬間 - 小林朋道」暮らしの文藝・話しベタですが・・・ から

 

「動物を“仲間”と感じる瞬間 - 小林朋道」暮らしの文藝・話しベタですが・・・ から

 

元日の翌日、研究室で正月を越させたシマリスやアカネズミ、コナラやクヌギの世話をするため大学に行った。
昼を大分過ぎてひととおりの仕事を終え、帰宅すべく駐車場に向かっていたとき、ふと、ヤギの「ヤギコ」のことを思い出した。
「ヤギコ」というのは、私が顧問をしているヤギ部というサークルで飼育されているヤギの名前である。彼女も正月を大学で過ごしたわけだ。
ヤギの小屋へ近づくと、小屋の戸は閉まっていた。今日は部員が早目にヤギを中にしまったのかと思いつつ、さらに近づくと、中でヤギコが床と壁を足でたたいてメーと鳴いた。戸が閉まっているとき私が近づくと、いつもこうやって感情を表す。
小屋のそばのスダジイを一枝取って上の戸を開けてやると、下の戸に足を掛けて、ぬっと顔を出してくる。
「よっ」と挨拶をしてスダジイを差し出すと、すぐ食べはじめる。
年明けだからあたりに人影はなく、しーんとしている。ときおり、林のほうから鳥の鳴き声と飛び立つ音が聞こえる。
なんとなく、正月に一人で過ごしているヤギコがかわいそうになって思わず「林の中を歩かせてやるわ」と声をかけた。
戸を開けて、首輪をひいて林の中の小道まで連れていくと、後はもう自分から私についてくる。ときおり、好きな植物を見つけると立ち止まって、文字どおり道草をくう。
一月にしては暖かいのどかな午後だ。思いきって一キロメートルほど先にある小さな池まで行くことにした。
スギと冬イチゴの林を抜け、ミカンとウメの畑を通り、ヒノキの斜面を降り、ササの原を少し歩くと、長径一〇〇メートルほどの池に出る。正月といっても特にいつもの様子と変わりはない。
ヤギコは池のほとりのササやシダの葉を食べている。そんなヤギコや、水辺の生物を観察しながら、静かに時間が過ぎていく。

さて、帰ろうかと思ったころ、雪が降りはじめた。鳥取は突然天気が変わりやすい。一日の中で、晴天と雪と強風と雷が次々と展開することもある。今回は、それまでの晴天と打って変わって、水分をたっぷり含んだ、ふわっとした雪だ。
気がつけば空はずいぶんと暗くなっている。ヤギコに声をかけて急いで帰りはじめる。
ヒノキの林に入ると、いよいよ中はうっそうとして暗い。倒木などを越えながら斜面を登っていると、なにやら妙に心細くなる。


私は元来、幽霊やお化けの類に大変弱い。人気のない暗いところに一人でいると、これまでテレビなどで見た幽霊などの怖い場面が頭に浮かんできてしまう。
これからこの暗い山の中を、かなり長い道のりを歩いて大学まで帰らなければならないのかと思うと、額に脂汗がにじむような感じがした。
そのときである。後方でメーという鳴き声がした。
振り返ると、ヤギコがヒノキの倒木の手前で立往生している。
ヤギの足や体は、岩場を歩くのにはよくできているのだが、ハードルを越えるような行動には向いていないのだ。
不安そうにこちらを向いて、それでもなんとか倒木を越えようとしている。
その瞬間、私が感じていた暗闇の中での怖さがすーっと消えていった。
私のことを好意的に認知し、私のほうへ来ようとしている大型の動物の存在がなにか仲間のようなぬくもりをもって感じられたからである。
そんな体験は、イヌやネコといったペットを飼っている人にとっては日常的なものかもしれない。
しかし、そのときの私の体験は特に強烈で、ヤギがほんとうに親しい知人のように感じられてうれしい反面、なにか不思議な気持ちになった。

 

 

これとよく似た体験で、忘れられない思い出がある。
岡山県のある山の中腹につくられた餌場でニホンザルの行動を調べていたときのことである。夕闇が迫ってくると、サルたちは、餌場から背後の山へと移動をはじめる。それを見ていた私も彼らについていきたい衝動に駆られた。
サルたちは、何回も通ってくる私のことをある程度は覚えていたと思う。だから私が彼らに近づいてもそれほどには警戒しなかったのだと思う。山にかえっていく彼らに、一〇メートルほど後方からついていった。
餌場のすぐ後ろは杉林で、中に入ると暗闇はいっそう深くなった。サルたちは黙々と杉林の斜面を移動していく。
やがてサルたちが独特の声を出しはじめた。ホーッ、ホーッという鳴き声である。互いに声でよびかけるようにしながら、声を交わしながら、上へ上へと移動していく。後方のサルがよびかけ、前方のサルが答えるといった感じである。おそらく後方のサルたちがはぐれないように、声を掛けあっているのだと思った。
へー面白いなーと思いながらノートに記録していたが、ふと、私も“鳴いて”みたくなった。サルたちが驚いて走り出すかもしれないと思ったが、どうしても鳴いてみたくなり、ホーッと、できるだけ彼らの声に似せた声で鳴いてみた。するとなんと、群れの前方を行く数匹のサルが、私の声に答えてくれたのである。
ホーッ。
私は半信半疑でもう一回鳴いてみた。するとまた鳴き返してくれた。
ホーッ。ホーッ。ホーッ。ホーッ。
そういうやりとりが、闇が深くなった林の中で何度か続いた。先頭付近のサルたちは嫌がるそぶり一つせず、辛抱強く私に答えてくれた。
気がつくと、私は群れの一員のような気分になっていた。私は一人ではないんだ。みんなと助けあって宿泊場所まで移動しているんだ。みんなもがんばれよ。そういった気分である。その瞬間も、なにかとても不思議な気持ちになった。
こんなことを書いていると、次から次へと似たような体験が思い出されてきた。もうわかったと言われそうだが、もう一つだけ、お話しさせていただきたい。
学生のころ、大学のある場所で、巣から落ちてよろよろ歩いていたドバトを保護したことがある。まだ、幼鳥特有の綿毛のような羽毛が残っているハトで、ほうっておくと確実に死ぬか、ネコなどに襲われただろう。
アパートに連れかえり、玄関の靴を脱ぐ土間のところに新聞紙を敷いてハトを放した。自分で暮らせるようになるまで餌を与えて飼うつもりだった。
最初は自分からは餌を食べなかったが、嘴[くちばし]をあけて餌を詰めこんでやると少しずつ自分から食べるようになった。それとともにだんだん元気になってきあ、時々、羽をばたつかせ、飛翔の練習をしていた。その瞬間は、床の埃が舞い上がって大変だったが、我慢がまんである。その代わりといっては何だが、飼っているとハトのいろいろな特性を観察することができた。

私の部屋の中には、その新参者のハトを遠巻きに観察するもう一匹の動物がいた。部屋の中で放し飼いにされていた雄のシベリアシマリスである。
彼のほうは私の部屋で暮らしはじめて、もう二年近くになっていた。部屋の中のいろいろな仕組みを知りつくしており、たとえば私が帰宅して机につくとすぐに、私の肩や机の上に移動してきて、食べ物をもらう準備をした。
あるとき、私が、カーペットを敷いたフロアーから、四つんばいになって土間のハトをのぞきこんでいた。
ふと、左側に動物の気配を感じだ。「何?」
と思ってそちらのほうを向くと、なんとシマリスもハトのほうをのぞきこんでいるではないか。そして、次の瞬間、私のほうへ顔を向けたのである。
そのとき私とシマリスとは、“目が合った”。
あれを目が合ったと言わずなんと言うのだろうか。私は挨拶しそうになった。

 

ヤギやニホンザルシマリスが知人のように感じられる感覚には、一般に、擬人化とよばれる認知様式が関係している。つまり、動物を、人間と同様な心をもつ存在として感じ、彼らの習性を理解しようとする認知様式である。
これまで、擬人化と言うと、幼児や原始的な社会の人びとが行う未成熟な思考だと考えられてきた。しかし最近の研究は、擬人化が原始的でも未熟なものでもなく、人間にとって根源的で重要な思考形態であることを示しつつある。
たとえば、人類本来の様式である狩猟採集生活を営む人びとを研究した多くの人類学者は、擬人化が彼らの狩猟採集の成功に大きく貢献していることを示している。
そういった研究者の中の一人S・ミズンは、擬人化が、動物の行動を予想するうえで、現代科学の生態学の知識に匹敵するほどの力を発揮すると述べている。
ヤギがヒノキの倒木の手前で立ち往生しているのを見て、「ヤギは四肢の構造が岩場の移動に適応していて、倒木の越え方がわからず困って立ち往生しているのだな」と擬人化したり、ニホンザルが夕闇の中、声を出しあいながら群れで移動している様子を体験して、「薄暗い中では皆、外敵のことなどを心配して怖いから、高い声で、大丈夫か?と声を掛けあいながら、互いに気づかって移動しているのだな」と擬人化すると、それぞれの動物種の習性が頭に印象深く入り、記憶にも残りやすいというわけである。
ちなみに、このような擬人化は、対象が動物にかぎられているわけではなく、植物についても同じである。たとえば子どもに対するように、その気持ちを想定して植物を育てる人は、種類によって異なる植物の習性をよく理解・記憶し、育て方も上手な場合が多い。

ヤギコと私の正月小池遠征のその後であるが、ヤギコの前に立ちはだかる倒木を移動させ、雪が降る中を歩きつづけ、やっと二人で大学のヤギ小屋までたどり着いた。
一人にするのがかわいそうであったが、ヤギコを小屋に入れて、首に手をまわして頭をなでてやった。
さようならの挨拶のつもりである。
イヌならばこのスキンシップが通じただろうが、ヤギのヤギコは嫌がった。ヤギという動物の脳には、体を強くふれあわせるような挨拶行動のプログラムは備わっていないのである。
それぞれの種の習性を考慮しない擬人化は、確かに深みに欠けている。彼らの習性に合致した挨拶をすべきだった。
ただ、一言、「またね」あるいは「メー」でよかったのだ。