「死に時のすすめ ー 久坂部羊」日本人の死に時 から

 

 

「死に時のすすめ ー 久坂部羊」日本人の死に時 から

 

何ごとにも、ころ合いというものがあります。
食べ時、買い時、勝負時、踏ん張り時、潮時、やめ時。
死ぬのにも、死に時というものがある55思います。
これまで医学は、命を長らえさせることを目的としてきました。病気や怪我で自然な寿命を縮められていたあいだは、それでよかった。しかし、今はもうその時代を過ぎています。自然な寿命以上に命を長らえさすと、悲惨な長寿になってしまう。
多くの人がそれを知らずに、素朴に長生きを求めています。そして、実際に長生きしてから、そのつらさに気づく。どこかで悪循環を断たなければなりません。
死に時については、むかしからその知恵はありました。古くは、吉田兼好の『徒然草』にこうあります。

あかず惜しと思かはば、千年[ちとせ]を過ぐすとも、一夜[ひとよ]の夢の心ちこそせめ。
住み果てぬ世に、みにくきすがたを待ちえて何かはせむ。
命長ければ辱[はじ]多し。長くとも、四十[よそじ]に足らぬ程にて死なむこそめやすかるべけれ。
(飽き足らずに惜しいとばかり思っていると、たとえ千年を過ごしても一夜の夢のように短く感じるだろう。どうせ最後まで住みきれない世の中に、老いて醜い姿になる日を待って何になろう。長生きをすると恥をかくことも多い。長くて四十にならないうちに死ぬのがちょうどよいところだろう)

「あかず惜しと思はば」というのは、欲望肯定主義への痛烈な批判でしょう。「命長ければ辱多し」というのも、現実をしっかり直視しています。
徒然草』は十四世紀の作ですから、そのまま現代に通用させるわけにはいきませんが、それでも死に時を四十歳までとするのはそうとう早い。しかし、かくいう吉田兼好自身は六十七歳まで生きていますから、死に時の有言実行はむずかしいようです。
いや、死に時というのは、何もそのときに死ななければならないということではありません。それくらいで死ぬだろう、あるいはそれくらいで死んだほうが楽だ、という目安みたいなものです。あるいは、むやみに長生きを求めない自戒でもあります。だから死に時を設定するなら、早いに越したことはありません。それ以上生きれば、それは余録ということになります。
江戸時代の禅僧・良寛の言葉にも、死に時に通じるものがあります。
一八二八年に起きた大地震のあと、知人を見舞うために送った有名な手紙の一文です。

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。

災害の見舞いになんとひどいことをと、怒る人も多いかもしれません。しかし、そのあとにはこう続きます。

是はこれ災難をのがるる妙法にて候。

つまり人智を超えた厄災は、逃れようと思えばそれだけ苦しみが増え、避けようと作為をほどこすほど煩いが大きくなるということです。だから、死に時が来たら、死ぬのがいちばん楽ということになります。
ちなみに良寛は七十二歳まで生きていますから、死を逃れようと思わなくても、長生きする人はするようです。
死に時を考えるということは、死を含むすべてに自然の時節をわきまえるということです。若いうちにはよく学び、一人前になったらしっかり働き、中年になれば人生の収穫を楽しみ、老いれば達観するということ。学ぶにも、働くにも、楽しむにも、達観するにも、それぞれふさわしい時宜[じぎ]があります。
ところが、現代は「今」が苦しいので、老いてから楽しむとか、あとで生き甲斐を見つけるとか、喜びを先送りする傾向があります。しかし、それは自然な時宜に反する。老いれば体力、気力ともに、若いときのようにいかないのですから。
では具体的に、現代の死に時は何歳ぐらいが適当なのでしょうか。
仮に今、死に時を六十歳にする場合と、八十歳にする場合を比べてみましょう。
まず、死に時まで生きる確率は、考えるまでもなく六十歳のほうが高いでしょう。
死に時まで生きられなかったら、早死にです。八十歳を死に時にすると、大半が早死にの危険性にさらされます。
人生でやりたいことは、死に時までにしておかなければなりません。六十歳を死に時にしついると、時間が短いので早めに努力せざるを得ません。八十歳だと余裕があるので、ついサボッてしまう。ところが八十歳までいろいろやるつもりでも、機能も能力も衰えるので、最後のほうはなかなか思い通りにできなくなってしまう。六十歳ならまだ能力もさほど落ちていないし、体力もあるのでほぼ想定通りの力が発揮できる。
死に時を過ぎれば、あとは余生です。ゆっくりと楽しめばいい。死に時を六十歳にしていれば、長く楽しめますが、八十歳では余生がほとんどありません。
六十歳を死に時と心づもりするのは、とても勇気がいることです。しかし、欲深い気持を捨て、心の底から死に時を六十歳と思うことができれば、八十歳まで生きたいと思う人より、どれだけ苦しみから解放されるかは明らかです。
今、六十歳の人に、六十歳を死に時と思えと言ってもむずかしいでしょう。でも三十歳ね人なら少し余裕があるのではないでしようか。だから、こういうことは早めに考えておかなければならない。早めに今を充実させ、早めに満足を得る。そうすることで、泰然と死に時を迎えられる。
死に時を越えれば、あとは自然な寿命を受け入れるだけです。そうやっていても長生きする人は、それが寿命なのですから生きればいい。
死に時の考えは、古くからあるものです。アメリカ先住民の詞にもあります。

-今日は死ぬのにもってこいの日だ。

死は悲しいし、つらいものです。それを乗り越えるために、人間は古くから知恵をしぼってきました。
ところが今、医学が進み、安全な世の中になって、多くの人が長生きできるようになると、その知恵を忘れるような風潮になりました。長生きが当たり前のように思われ、本来なら十分に長生きといえる人が、早死と嘆き嘆かれて死んでいく。寿命が延びて、早死にが増えたという逆説的な状況です。
自分の死に時を何歳にするか、それは自分次第です。そんなことを考えなくても、死は必ずやってきます。死ねば何もわからなくなるので、準備しようがしまいが、結局は同じなのかもしれませんが。