「父の死から学んだことー佐藤愛子」新潮文庫“こんなふうに死にたい”佐藤愛子著から

「父の死から学んだことー佐藤愛子新潮文庫“こんなふうに死にたい”佐藤愛子著から
 

私の父が七十六年の障害を閉じたのは、私が満二十五歳の時である。父は奔放不覊(ほんぽうふき)な人生を送った後、七十を過ぎて老耄(ろうもう)し、あっちが痛いこっちが苦しいといい暮して次第に衰弱し、寝たり起きたりしていたのがやがて床に就いたままになった。昭和二十四年のことで、食糧事情もまだ悪く、アイスクリームを買うために世田谷から玉川電車と地下鉄を乗り継いで、銀座のオリンピックまで、魔法瓶を持って行かなければならないという時代だった。
父の看病は母と付き添い看護婦とが交替で務めていたが、看病といっても今のように点滴などの療法があるわけでなく、時間がきたら薬を飲ませ、食事をさせ、あとは足腰をさするというようなものだった。当時私は千葉県の柏市に近い農村にいたが、父危篤の電報に呼ばれては、何度も世田谷と柏の間を往復した。もう危い、もう危いといわれながら、父はその都度持ち直して私たちを拍子ヌケさせた。何しろ我儘の限りをいいつづける病人である。何ヵ月にもわたる看病で母は疲れ果てている。電報を見ては飛んでいく私や姉にはそれぞれの家庭があり、家事が山積している。
「まだですかいな」
と身近の見舞客も声をひそめていうようになった。皆が父の死を待っていることを憚らず口に出すようになったのだ。ある人は部屋に死臭が漂うようになったら愈々(いよいよ)ですといい、ある人は鼻のアタマが透き通ってくるて危いといい、また別の人は足にムクミがきたら前兆ですと教える。
その中で父は、うーんうーんと唸っていた。もともと大袈裟な人だから、その唸り声に本気で心配をする者は少い。しかしそうかといって大声で唸っているものをほうっておくわけにはいかないし、あるいは今度の唸りは本当に苦痛を訴えているものかもしれないとも思う。
父の腰をさする者、足や背中を撫でる者、私たちは二人がかりで昼も夜も交替で父につきっきりになった。さする手を少しでも止めると、父は唸り出すのである。早春の暁を告げる鶏の声を何度か聞きながら、父との別れを思うと、その度にどっと涙が溢れた。しかし苦しむ父を見ると、私は父のために、父が「無の世界」へ消えていく日が早く来ればいい、と思うのだった。
そんな夜半、唸りつづける父の枕頭(ちんとう)に坐って、腰をさする順番を待っていた身内の一人が、そこにあった新聞の余白に書いたものを私たちに見せた。
「死の恐怖?」
そこには一行そう書いてあったのだ。
父が唸るのは肉体の苦痛のためではなく、死の恐怖のためだと喝破(かつぱ)したつもりのその人物に、一瞬、私は娘として反感を覚えた。
ー そんなお父さんじゃない!
といいたかった。我儘でこらえ性のない人ではあるけれども、死ぬのが怖いだなんて、そんなことがあるわけがない。父はものに動じるさまを見せたことのない人だった。鼻先に雷が落ちた時も、私たちが泣き騒ぐ前で平気で新聞を読んでいた。米軍機の編隊が焼夷弾や爆弾を落して上空を廻っている時も、一人防空壕に入らず縁側に立って空を見上げていた父だ。
しかし、「死の恐怖?」というその一行に説得力があるのを、私は感じないわけにはいかなかった。父が唸るのは肉体的苦痛を訴えているのではなく、絶えず誰かの手で身体をさわられていることによって、死の恐怖を紛らせようとしているのかもしれない。そう思った時、私は慄然とした。この世でのどんな胆勇も教養も役に立たない時があったのだ。
お父さんは死は無だとなぜ思えないのだろう?
なぜ死が怖いのだろう?
七十六まで好き放題に生きて、病み衰えてまだ、この世に未練があるというのか?
私にはよくわからなかったが、わからないままにゾッとした。死が無だと考えてすましていられたのは、私がまだ死に直面していないためなのかもしれなかった。いつか私も父のように、(父と同じように怖いものなしに生きて来た私だが)生と死の境い目で苦悶するようになるのかもしれないのだった。
それから数日後の昼下りのことである。父はすやすやと眠っているようだったが、ふと目を開いて母にいった。
「身体を起してくれ」
母に手伝われて上体を起すと、父は顔を上げ、腹の前に両手を組み合せ瞑目して低く呟いた。
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
三度唱えて床に臥した。
思わず母と私は目を見合せた。背筋を戦慄が走った。父の口から念仏が出るのを私たちははじめて見たのだ。我が家には神棚はあったが仏壇はなかった。僧侶のことを父は「坊主」と呼んだが、その口調にはいつもゆえない軽蔑が漂っていて、「坊主」という言葉はまるで「俗物」の代名詞のように響くのだった。
その父が南無阿弥陀仏と唱えたことに私たちはものもいえないほどびっくりした。
「あれは何やろ?」
そのあと、物かげで母はいったが、私は何も答えられなかった。ただただ驚いていた。驚きが去ると、安堵が胸に広がっていった。ああよかった、と思った。父は死を怖れている自分を克服しようとして念仏にすがったのだろうか。それともそれは、漸く死を受け容れる覚悟が決ったということを意味するものだったろうか?
瞑目している父の横顔は、苦しみすがる者のそれではなく、なにか偉大な存在の前に、己れのすべてを預けたという静けさがあった。それはまるで阿弥陀如来が父の前に姿を現し、父はその有難さに伏して、思わず念仏を口にしたというような様子だった。私はそう感じた。仏教について何の知識も関心もない私が、なぜかそう思ったのだった。
その後の父はまったく静かになった。仰臥したまま、何もいわす、唸りもせず、おとなしく母が匙で運ぶものを口に入れ、便意を告げる時だけ声を出した。あとは黙って静かに眠っていた。
そうして六月のある早朝、父の傍に眠っていた私が、はっと目が醒めて父を覗くと、父の息は絶えていた。いつ絶えたのか、私がはっと目が醒めたその瞬間だったのか、その前だったのかわからない。静かに眠ったまま、父は死んだのだった。