「日本的商人道徳への違和感 - 中島義道」新潮文庫 私の嫌いな10の人びと から

「日本的商人道徳への違和感 - 中島義道新潮文庫 私の嫌いな10の人びと から
 
日本的芸人と並んで、感謝ばかりしている人種として、日本的商売人があります。彼らは、儲けようとして商売をしているはずなのですが、表面的にはお客さまに対して感謝ばかりしている。彼らからは、「お客さまに喜んでいただけるだけでいいのです」というせりふが発せられますが、これも大嘘です。すべての「お客さま」が大喜びで食べて、かつ食い逃げしたら、商売はやっていけない。やはり、感謝という精神的見返りだけではなく、金という物質的見返りを期待しているのです。それを言わないことが欺瞞的です。
思いっきり現実的に言いますと、われわれが何か商品を買ったりサービスを受けたりするとき、それらと金とを交換しているにすぎない。その金も、自分の 労働の対価とし て得たものである。だから、売り手と買い手は対等なはずであって、売るほうだけが卑屈なほど感謝する必要はない。では、彼らはなぜああまでも感謝するのか?たしかに数ある旅館のうちから、数ある車のうちから、「これ」を選んでもらって心から感謝することもあるでしょうが、それは副次的なこと。あれこれ考えたすえに、そのほうが客によい感じを与え、信頼を勝ち得、結局は商売が繁盛するからだ、という納得する結論に達しました。
次のような、変な新聞投書があります。
節分になると、いまでも思い出す隣のおじさん、県道をはさんで向いの家が、まんじゅう屋をやっていた。・・・・・おじさんは、節分が来ると大きな声を張りあげて、「ふくふくー、ふくはーうち」とだけ繰り返し、「鬼はそと」のない豆まきをするのです。どうして「鬼はそと」とは言わないのだろうと子供のころは思っていました。年を重ねたいまにして思えば、商売をしていたおじさんは「世の中に鬼はいないよ。もしいたって、みんなお客さんだよ」と思っていたからだろうと、その温かい心が感じられて納得できるのです。(朝日新聞 二〇〇五年二月五日)
野暮を承知で言うのですが、このまんじゅう屋のおじさんに、私は「温かい心」をあまり感じない。彼は、商売を続けられることに対して店の外にいる可能的お客全部に感謝しているのであって、それは単に「温かい心」というのではなく、もっと現実感覚、商売感覚のあるものです。ただし、国民の大多数は - この投書者のように - ただよい商品を提供してくれるばかりではなく、さらに「温かい心」をもっているのだから、この店のまんじゅうはおいしいにちがいない、と思い込む。でも、とってもまずいかもしれないではないですか!
こうして、すぐさま「こころ」を求めるこの国の商人道徳に、私ははなはだ違和感を覚えます。商売人は、第一に よい商品とよいサービスを提供すればいいのであり、「温かい心」は、それを補充する意味しかもたない。どんなに「温かい心」をもっていても、商売は失敗するかもしれず、どんなに「冷たい心」をもっていても大成功するかもしれない。ということは、 - あのまんじゅう屋のおじさんを含めて - 商売人は商売が成功するかぎり「温かい心」をもてばいいのであって、商売が上がったりでは「温かい心」をもってもしかたないのです。
このメカニズムを腹の底まで知っていますので、私はむやみやたらと感謝する商売人を前にすると。居心地が悪くなる。この居心地の悪さは、あまりにもドライな感謝の仕方に対する居心地の悪さに通底します。この国では、何もかも定型化されるのですが、感謝の気持ちも、あっという間に定型化される。コンビニやファーストフード店やチェーンのコーヒーショップなどその典型ですが、若い女の店員など、まるで感謝の気持ちの一滴もこもらない口ぶりで「ありがとうございまあーす」と機械的に叫んでいる。最近は、一人が「ありがとうがざいまーす」と叫ぶと、次々に店のあちこちから「ありがとうございまーす」という挨拶がこだまのように跳ね返ってくる。こういう 極度に定式 的な量産化された感謝の気持ちの表明には、殴りつけたくなるほどの不快感を覚えます。そして、こうした過度に定型化された感謝の気持ちの表明も、もとをただせば、あの古典的商売人たちの、こちらが気まずくなるほどの感謝の気持ちの表明につながってくる。それがもともと心からの気持ちではなかったからこそ、最近の定型化された表面的感謝もまた違和感なく生き延びてきたのではないか、と忖度(そんたく)します。