1/2「棋聖・名人を語る - 呉清源」日本近代随筆選1 から

1/2「棋聖・名人を語る - 呉清源」日本近代随筆選1 から
 

私がまだ五段にならない頃には、秀策流の布石、一、三、五と三つの隅に小目に打つ堅実な石立を好んで打っていたが、その後間もなく新布石法が出て来て、碁の理論が難かしくなり、小目に打つことが隅の片寄りだという風に思われて来て、だんだん小目よりは高い位置に石を布(し)くような、それこそ碁界初まって以来の三連星や、トーチカや、五の五や、三の三などが碁界全体を風靡するようになって来た。
碁を陰と陽との調和の世界だと考えていた私は、そのような布石はあまり一方へ行き過ぎで、いつかは旧布石と新布石との調和した新しい世界が出て来るのではなかろうか、それがこれから先の碁の世界になるのではなかろうかと考えていた。はっきりした形 ではなく 、ぼんやりした 考えではあったが、この頃の専門棋士たちの布石を見ると、当時の私の考えは当っていたように思う。
一、三、五の布石は、文化、文政の棋聖といわれた秀策が黒を持って必勝とされた布石である。その頃の私は心をひそめて秀策を勉強した。『敲玉余韻(こうぎょくよいん)』という本に秀策の打碁が殆ど集められていて、有名なお城碁も全部挙げられている。十何年間お城で打った碁を一局も負けていず、その中には秀策の白番の碁も多いのだから、車坂の道場に初めて秀策の碁を見た名人丈和が「二百年来の碁なり」と賞したのも尤もな話である。「二百年来」というのは、その時代から二百年近い以前に現われた棋聖道策以来という意味であろう。
黒を持って勝つためには、堅実な布石がよいのであるうが、この頃のように白を持って打つことの多い私には、なにか嫌(あきた)らないような気持がしてならない。そのせいか、この一、二年、碁経を繙(いもと)いて検(しら)べるとすれば、それは明治の巨匠秀栄名人の打碁である。それも秀栄名人が四象会で群雄を全部、先から先二に打込んだ頃の打碁である。秀栄名人の碁は、形に明るくて勝負が早く、その一手一手を味わうと、まことに神韻縹渺(しんいんひょうびょう)としており、私などにはまだまだ至り尽すことの出来ない世界である。その深い淵を眺めて、どうかすると茫然とすることもある。
しかし、全然秀策の碁を検べることを止めたというのではなく、今年の正月から日本棋院の雑誌に頼まれて、秀策の研究を続けているが、三段、四段当時に並べて看得した秀策の深さ高さというものを、もう一度ふり仰いでみて、なかなかにその峯が高く、その谷が深いのに今更ながら驚かされる。晩年、秀甫八段と何局か続けて打っているが、その碁も私には興味が深い。その当時の秀甫八段は、まだ段も持っていず、村瀬弥吉といって、子供子供した名前が奇妙に私に響く。それでいて、強情に力が強く、後に明治初年の碁界を完全に圧倒し去った秀甫準名人の面影がある。
その何番かの碁を並べてみると、至るところで黒の弥吉が力を出して、さんざんに白を追っかけ廻し、碁盤の上を暴れん坊のように縦横無尽に駆けめぐり、白はまるで木の葉の如く逃げてばかりいるように見えるが、さて勝負となると、一目か二目、どうかすると弥吉の方が軽く負かされている。怖ろしいことだと思う。勝と負との至り尽した先が、真空のように何もない、無に近いものであろうということは、朧ろげながら分るけれど、そのありようは、私などにはとうてい届かぬ世界であろうか。
古来からの棋聖名人を眺めてみて、その誰も彼もが非常に私には気の毒に思われることは、共に技を磨いてゆく好敵手が少ないことである。名人道知(どうち)など、一生涯の中で力のありったけを出して闘かったことがないとさえいわれている。ほかの芸術と違って、碁は相手がなけらばならないものだけに、自分の力のありったけを出して闘えなかったという人達の虚無感は、どれほど強かったことであろうか。それに引きかえ、今の世に生きている私たちはどれほど幸いであるか分からない。いつでも碁盤に向えば、眼の前に私の技のありったけを出さなければならない好敵手があるのである。文化、文政の初期に、本因坊元丈(げんじょう)と安井算知(さんち)の二人が、まだ十歳 になるかならないうちから死ぬまでお互いに百番近い碁を打って、しかも二人とも名人を望まず、八段で終ったという美しい話は、日本の碁の歴史の上の清らかな話題となって残っているが、私どもの考えからいえば、元丈も算知も、自分の身につけた段位などは問題にはしないで、ただ二人で碁が打てるという楽しさの中に浸って生きていたように思われる。
元丈が早く死に、本因坊丈和が名人碁所を狙っていろいろと画策していた時分、安井算知の生きていることがどれだけ強い恐怖であったかということも、私は碁の歴史を読んで覚えた。或る時、丈和が算知と一局試みて、その碁が丈和の危ない碁になり、辛うじて二目を剰したが、それまでは算知老いたりと考え、名人碁所になることが出来るであろうと自惚れていた丈和も、その一局によってその野望を大いに挫かれた、という俗説はとらないとしても、恐らくは算知の心になって考えると、元丈のいない後の碁界などというものは、木枯らしの吹きすさぶような索漠としたものではなかったろうか。