「テンとマル - 丸谷才一」集英社文庫 別れの挨拶 から

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「テンとマル - 丸谷才一集英社文庫 別れの挨拶 から

 

句読点といふのは、本来はなくたつてかまはないものである。ここまででわたしは読点を一つと句点を一つ使つたけれど、これはもし何なら使はなくても別に間違ひではない。ただ現在の慣例に反しているだけだ。最初の文のテンはともかくマルは絶対に必要だ、と頑張る人もいそうだが、古式ゆかしくゆけば、どつちもなくて差支へない。
源氏物語』だつて『史記』だつて、もとの作者が書くときは句読点を打たなかつた。今われわれが『源氏物語』や『史記』を読むとき、句読点つきのテクストを読むのは、読みやすいやうに後人が打つたものなのである。つまりあれは注釈者の親切であり、注釈のための符号なのだ。
そして今は普通、句読点を打つのは、い はば印刷 工の親切で、かうするほうが読みやすからうといふ優しい気持のあらはれである。そこで、どうせ印刷工が親切にするのなら、筆者自身が打つほうが打ち間違へもないし手間もはぶけるといふことになつて、筆者が指定する風習になり、それでわたしは句読点を打つたのだつた。
少年時代わたしは、かなり年長の従兄弟が手紙を書くのを横で見ていたことがある。彼はまづ巻紙に長い文面をしたため、読み返すときにマルとテンを打つのだつた。これは『源氏物語』の作者(紫式部か誰か)とその注釈者(藤原定家か誰か)とを一身にして兼ねるやうなものだが、従兄弟の手紙書きと違つていまわたしがしているやうに書きながらマルとテンを打つたつて、作者兼注釈者といふことには変りがない。つまり今 のわれわれは、注釈をしながら文章を書くのである。紫式部か誰かはわからないが、とにかく『源氏物語』の作者と、現代の男ないし女の小説家との、いちばんよく目につく違ひはそこで、昔の彼女ないし彼はただ字だけを書いたのに対し、今の彼ないし彼女は、 字のほかにテンやマルや、それにもし必要な場合には感嘆符や疑問符、一重のカギや二重のカギやその他いろいろの記号を使ひ、そのことにより自分の書いた文章の読み方を読者に指図するのである。しかしまあここでは句読点のことに話を限る。
親切ないし指図が必要なのは、口頭の言語と文章で書く言語とではまるで条件が違ふからだ。わたしが友達をつかまへて、このあひだ野球を見に行つて雨に降られた話をするとする。球場の様子、試合の勝ち負け、弁当は何を買つてどんな味加減だつたか、そしてもちろん空模様こと。このときわたしの話し方には強弱や抑揚がある。切れ目がある。手を振りまはしたり、目くばせをしたり、笑つたり、口を曲げたり、いろいろ表情がある。わたしの話は単なる 言葉の連続ないし言葉の組合せではなくて、言葉以外のさまざまなものによつて補はれている。だから完璧な表現ではなくても一応なんとかわかる。全部が全部きれいに呑みこめるわけではないにしても、かなりよく通じる。
ところが文章となると、平安朝の小説家や西漢の歴史家の流儀でゆく限り、ただ文字がぞろぞろ並んでいるだけで、それをどう読めばいいのかといふことは文字それ自体から推測しなければならない。声の具合から見当をつけることもできないし、表情や身ぶりももちろんない。つまり闇雲に読んで意味を考へなければならない。読書百遍、意おのづから通ずといふけれど、百遍はともかく、三回か四回、読み返してやうやく意味が通ずる場合だつてあるだらう。これでは手間がかか つて仕方がない。大変である。文章といふのは書く者の言ひたいことをわかつてもらふためにあるのに、この伝達といふ目的にそむくことにさへなるだらう。そこでとりあへず、せめて句読点を打つて、ここで休止といふことだけは示すのである。
だから考へてみれば、文章といふのは、たとへ今の代表的な名文家のものしたつて、ずいぶん不完全なものだ。ほかのいろんな読み具合は指示できない。ただ休止を指示するだけで、あとは読者の勝手にゆだねている。もちろん自由の幅がかなり大きいから楽な気持で読めるといふこともあるにしても。あんまりうるさく息のつき方を指定されると、かへつて、窮屈で仕方がないといふこともあるかもしれない。つまり読者めいめいの生理の違ひに属するところ ははふつて置いて、うんと大筋だけを指図するわけだ。そのへんの調子は、作曲家がオタマジャクシのほかに書くあれこれの記号に似ている。
句読点といふ休止記号の目的とするものは、論理とリズムである。どうしてもこの論理は読者に伝へたい。ぜひともこのリズムで読んでもらひたい。その二つを注文するわけだ。もちろんいくら注文したつて、これは願望にすぎないから、果して読者がうまく受取つてくれるかどうかわからないけれど、ないよりはましだらう。そんな気持で句読点を打つのである。上手に演奏してくれよと祈る、作曲家の気持がわかる。
しかし、句点は文末に打つ。これはまさか落すはずがない。問題なのはやはり読点だらう。
読点のありなしのせいでの論理の取り違へについては、古来いろんな笑ひ話が出来ている。あれは極端な場合だが、あれほどトンチンカンなことにならないまでも、とまどつたり、ゆきつもどりつしたりするうちに読むのが厭になつては困るから、読点は適切に打たなければならない。句点はなほさらである。
論理を明らかにするためだけで読点を打つのならまだしも易しいかもしれないが、これにリズムを指示するための読点がまじるから厄介だ。たとへば今わたしが書いたばかりの文で言へば「厄介だ」が主文だから、そのすぐ前に読点を打つのが論理上よさそうなのだが、わたしの感じとしてはここは一気につづけてもらひたい。こんなふうに面倒なことが多いし、それにさつきも言つたやうに、あまり厳密にいちいちリズムを指定すると、読者のほうに自由がなくなつて、気づまりで困るといふこともある。一体に書き方のコツとしては、読点に頼りすぎる形で意味を伝へようとする文章はよくないやうだ。読点なしですらりと頭にはいるが念のためほんのところどころ打つといふ文章がわた しは好きだ。