「反省なき男の - 中村伸郎」おれのことなら放つといて(ハヤカワ文庫)から

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「反省なき男の - 中村伸郎」おれのことなら放つといて(ハヤカワ文庫)から
 

諸行無常と思えばこそ、うたたかの短い一生、私はやりたいことをやって、

除夜の鐘おれのことなら放つといて

などとうそぶいてはきたが、七十五歳の今年悔いはないようである。女房も呆れて、私が一文にもならない芝居で過労になったり、酒や煙草が過ぎたりしても知らん顔をしている。
そんな私が、去年の秋頃から目が霞んできた。気が付いたのは「虫たちの日」という芝居の舞台で新聞を拡げたら、見出しの大きい活字しか読めないのである。診てもらったら老人性白内障で、もう少し進むのを待って手術をしないと失明すると言われた。
どうしようもないと判ったら逆らわないことにしている私は、その時が来るまではと、別役実さんに新しい芝居を書いてもらって稽古に入り、この芝居の千秋楽までは片目でも、薄ぼんやりでも視力を......と無責任な賭 けをして いる気持ちであった。「メリーさんの羊」という芝居で、霞む目でなんとかし終おせたが、一時間余を喋りっ放しの緊迫した舞台だった。
この芝居を打ち上げて二日後の一月末に、疲れ切った体調のまま白金の北里病院に入院して、まず左眼を手術した。執刀の中野彊先生は、
「次の芝居の初日は三月十九日でしたね。稽古は何日くらい必要ですか。その芝居止めるわけにはいかないんですか」
「止めたくないんです」
「では両眼の手術ですから、躰を休めるためにも一カ月病院で安静にしてください」
といわれ、私は芝居やりたさに模範囚人のように従順そのもであった。
次の芝居というのは一年前に上演した、やはり別役実さんの「天才バカボンのパパなのだ」の 再演なのだが、台本が読めない目なので入院前から用意しておいた、前回の上演の録音を病室で聞きながらせりふを覚えた。看護婦さんも、
「たいへんですね、頑張ってください」
と励ましてくれた。
記録的だった東京の大雪つづきもやっと収まりかけた頃の二度目の右眼の手術もすみ、予定通りの一カ月目に退院して、その三日後から稽古に入った。
私の入院でやはり稽古の日程が足りないので、第一日目から台本を離しての立稽古を強行したが、私は久し振りのせりふのやりとりに、鳥が空に放たれたようにわれながら昂奮し、病室で覚えたせりふも淀みなくでるし、ついに本意気で発声してぐったり疲れてしまった。稽古が終ってもしばらく息切れがおさまらず、一緒に出演している娘のみな子に、
「大丈夫?」
と心配させた。
この芝居も疲れのとれぬまま打上げはしたが、芝居、入院手術、また芝居....いくらなんでも無理をした、と誰も言わぬが自分でよく判っている。このあとの予定は五月六月とNHKのテレビ、六月末の新作の舞台、九月も十月もまた新作の舞台、そして来年の三月の舞台も決まっている。
来年は七十六歳という私がこのスケジュールのどの時点で倒れても、
「とうとう」 「やっぱり」 「あの芝居が無理だった」
と言われながら諸行無常、と幕が下りることになるのだ。
がしかしそれまではまったく反省のかけらもなく、
「おれのことなら放つといて」
であり、女房も知らん顔をしているより手はないであろう。