「よい文章とは - 金田一京助 (中2)」文春文庫 教科書でおぼえた名文 から

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「よい文章とは - 金田一京助 (中2)」文春文庫 教科書でおぼえた名文 から
 

(その一)
書いたのを通例「文章」というのは、口で言う「談話」に対する名である。談話はすなわち「話しことば」で、文章はすなわち「書きことば」である。
書きことばも、心を通じあう「ことば」であるから、いちばん大事なことは、よくわかることである。よくわからなかったら、どのように美しくても、どのようにりっぱでも、「ことばの目的」を完全に果たせないからである。
それでは、どうしたら、よくわかる文章が書かれるであろうか。
よくわかる文章を書くには、文章だからといって、特別に角ばらず、「話すように」書くことである。
毎日話している時のことばは、決してみながみな下品なものでも、つまらないものでもなく、かえってほんとうの生きたことばなのである。
ある農学の大家が、ある村へ行って、「土壌の話」を一時間あまり講演した時、すんでから、ひとりの聴講者が、けげんな顔をして質問に出て来、「どじょう、どじょう、とおっしゃいましたが、赤どじょうのことですか、ごまどじょうのことですか」と言ったという。「土」でわかることを「土壌」などと言うくらいだから、さだめしあとのことばもその流儀に、むずかしかったであろう。そのため、せっかくの講義もだいなしだったことが、この質問で思いやられるではないか。
いったい、今日われわれの使っているこのことばは、もともと、何千年の歳月のふるいにかかって、すたれてよいものはすたれ、伝わってよいものが残って、こうして存在するのである。雪だの、雨だの、風だの、また土でも、水でも、木でも、花でも、そのほか、目・口・耳・手・足・胸・頭・いぬ・ねこ・うし・うまなどというようなこうした一つ一つのことばは、よくわかってまぎれの少い、やはり残るべくして残った、けっこうりっぱなことばである。それを結構ともなんとも思わずに用いているのは、空気に慣れて空気のありがたさを感ぜずに生きているのと同じわけである。
美術家は、「自然には、学んでも学んでも学びつくせない無限の美がある」と言う。自然といえば、言語でも、自然なものほど美しいものはないのである。
試しにじっと聞いてみるがよい。おさな子どうしの問答にも、学生どうしの対話にも、道ばたの青年の「きみ」「ぼく」の立ち話にも、電話口の婦人のちょっとしたあいさつにも、きわめて自然に話しあっていることばのうちには、どうかすると、うっとりと聞きほれるほど美しく流れていることばがあるであろう。それもそのはず、ふだんの話は、相手がわかってくれるように話しているものだから、ひとりでに、ことばとして、最もよく目的にかなっているせいである。それだからこそ、劇を作る人々が、会話ばっかりで、万人の胸を打つ名作をしあげられるのである。
だから、よい文章を書こうとするなら、まず、深い愛情と理解とをもって、われわれの常のことばの美しさを味わい分けて、これをよく選び、これをよく生かして、わかりよい文章をねらうことが第一である。

(その二)
心を通じる目的にかなう第二の要件は、言おうとすることを、じゅうぶんに表わし出すことである。
しかし、目に見えない心の中を、目に見える文字の上にうつし出そういうのであるから、実は、一升のますで一升の油をくみ出すようななまやさしいことではない。いや、最もむずかしい。手品のようなことであるはずなのに、その困難を乗り越えて、古今の名文は、目に見えるようにあざやかに表わし、読む者が引き入れられて息もつけない、それほど巧みにうつし出しているのである。
どうしてそのような名文ができるのであろうか。
それは、名匠苦心の結晶であって、そうそうやすやすとできたのでは決してない。真剣に打ちこむ情熱 - いわゆる心をちりばめ骨を削る刻苦を経てできあがるのである。
ししはうさぎを裂くにも全力を出す。われわれ微力な者がこの難事に当るのである。全力を打ち込む情熱が、ぜひいりようであること、言うまでもない。
さいわいに、書きことばには、話すのと違って、必ず多少の時間があるから、幾度でも言い改めて、一語一語を精選することができる。その上に、あらかじめ考えをまとめて、順序をたてていく余裕がある。この余裕を遺憾なく有効に利用するのである。
いちばん言いたいことを、箇条書きにまずメモに取るのもよい。それから、どれを先に言って、どれをその次に言ったらよいか、筋のよく通るように順序立てをすることが大事で、それから、ていねいに書き進んで、全体をまとめていく。全体がひととおりまとまったら、こんどは幾度でも読み返して手を入れると、そのたびごとに、少しずつよくなっていくものである。すなわち、言い足りないところを書き替え、なくてもよいことばはできるだけ削っていく。この削ること、なおすこと、書き足すことを怠ってはいけない。時間の許すかぎり、そうしてみがきあげるのである。
天才人の一気呵成ということもあるけれど、そういう類はいったいまれで、われわれ凡人は、どのように推敲しても、決して恥ずべきことではない。それは文を書く者の良心から出ることで、むしろ尊い努力である。

(その三)
「よくわかる」文章に上に、「よく書けた」文章があるが、も一つ上の、ほんとうのよい文章は、人の心を打つ - 少なくとも、「なるほど」と全くうなずかせるところまでいくのでなければ、じゅうぶんとは言えない。
どうしたらそういう文章が書けるであろうか。
もちろんそれには、内容がすぐれていなければならない。すなわち、物の見方・考え方が深く、知識・感情が豊かであることが必要である。だが、それは多年の修養にまつことであって、すぐにはまにあわない。すぐに、だれにでもできることは、まことの心をあげて文章に取り組むことである。
まことから出た文でなければ、人を打つ力がない。書こうとすることに誠実にぶつかり、読む人に対して胸を割った本音をぶちまけ、笑う者には笑わせて、ただわがまことを尽くして満足し、でき、ふできを問わない、その時、そこに、天真の流露するほんとうのその人の文章が生まれるものである。
文は人なり」ということも、そこからくる。文はすっかりその人がらを表わし、読む人は文によって作者の人がらを思い浮かべから、かりそめに文章は書けない。才気だけでやってのけるのは、たとえおもしろくても、文が浮薄に流れやすく、決して好ましいものではない。われわれには「まこと」より以上のことができるものではなく、「まこと」はだれにもあることだから、われわれはせいぜい、せいいっぱいのまことをこめるだけである。またそれでじゅうぶんなものである。それには、ただすなおになりさえすればよい。それでこそ、だれにも、よい文が書けるはずなのである。ばくろう(うま商人)のうま代の催促文にこんなのがある。

一、金十両
右うま代、くすか、くさぬか、こりゃどうじゃ。くすというならそれでよし。くさぬというならおれがゆく。ゆくにつけてはただおかぬ。かめがうでにはほねがある。

「くす」は「よこす」の方言、「かめ」はその人の名で、亀吉とか亀造とかいう男であったらしい。単刀直入、胸を割ったことば、しかも起承転結、整然として一字を削ることも一字を増すこともできない、一結千鈞、幾万言の督促状にもました力がある。
もし、四角四面の手紙を書かせたら、無学文盲のかなしさ、人笑わせの文しか書けなかったに違いない。たまたま思うぞんぶんを、率直に、かながきにつづったから、上々の督促文ができあがったのである。昔から、無筆者の名文として有名な手紙であるが、もとより、ばくろうのことだから、荒っぽいことを言って、決してほめたことではないけれど、しかし、これをもってみても、名文は、無学文盲にさえできるのである。われわれにうまく書けない時は、思うに、熱意が足りないか、あるいは、「笑われまいか」「きまりがわるい」「ほめられたい」などいうような雑念にじゃまをされて、ほんとうにまだまことの心になりきれないせいだと知って、いま一段の努力を要する時である。