「映画の問題(抜き書き)ー 北野武」幻冬舎刊 全思考 から

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「映画の問題(抜き書き)ー 北野武幻冬舎刊 全思考 から
 

俺は介護老人タイプの映画監督

1本の映画が完成するまでには、いくつもの工程がある。
脚本作りに、ロケハン、撮影、そして編集、音入れ。どの工程にも、それぞれの楽しみがあるけれど、俺がいちばん面白いのは編集だ。
プラモデルなら、パーツはすべて箱に入っている。箱を開けて、ニッパーで部品を切り離して、ワクワクしながら組み立てるのがプラモデル作りの楽しみだ。映画でいえば、その組み立て作業が編集だ。
映画の場合は、そのパーツを作るところからやるわけだから、撮影が全て終わると、さあいよいよ編集だっていう感じになる。
もっとも、この部品が、足りないことがよくある。プラモデルだったら部品が足りないよって模型屋に文句を言うところだけれど、映画じゃその責任はすべて自分にある。足りなくても何でも部品を無理矢理くっつけて、完成させなきゃいけない。おかげてタイヤがハンドルになっていたり、サイドミラーの代わりにルームミラーをくっつけちゃったり。
だから俺の映画はプラモデルと違って、上下左右360度どこから見ても精密に出来ているわけじゃない。こっちの方向から見たら駄目!ってところがある。つまり、ちょっとインチキ臭いのだが、この辻褄合わせが、意外に面白かったりするのだ。
映画はいうなれば、動きと音のついたプラモデルだ。
プラモデルには、動きもなければ音もついていない。だから子供は、自分で作ったプラモデルに、自分で音や動きをつけて遊ぶ。漫画本やお菓子箱を空想上の敵陣地や障害物に見たてて、「ドカーン」とか「ゴゴゴゴゴッ」と自分で言いながら、戦車を走り回らせる。 
映画は、自分でプラモデルの部品を作って、それを組み立てて、さらにリアルな音までつけ加えることができる。戦車を作って、それを爆破させたいと思えば、現実に爆破させてしまうこともできるわけだ。しかも、火薬のプロが俺の思い通りに爆破してくれる。これはほんとに、最高に面白い遊びだ。
もっとも、夢中になってプラモデルで遊んでいる子供も、映画を作っている俺も、その遊びから得ている快感の量にたいした違いはないかもしれないけれど。

芸人にとっていちばん重要な才能は“間”だ。ときどきこの間の取り方が、とんでもなく悪い人がいる。間が悪いというやつだ。これは天性のものらしい。
人を笑わせるにも、泣かせるにも、この間がモノをいう。極端にいえば、1秒の何分の一か間が狂っただけで、笑える話も笑えなくなる。
映画もまったく同じで、絵がいくら上手に撮れていても、間が悪いと観客を映画に引きずり込むことができない。この映画の間を決めるのが、編集の作業だ。どの絵とどの絵をどうつなぐか。映像を切り替えるタイミングをどうするか。こればっかりは、理屈じゃ割りきれないから、自分の感覚だけを頼りにつないでいく。それが編集の醍醐味。映画の出来不出来は最終的に、そこで決まる。
映画は徒弟制の職人の世界だから、お笑い芸人の俺が初めて映画を撮ったときも「タケシは素人だ」っていう映画関係者がいた。そんな陰口は屁とも思わなかった。
映画なんて、カメラは1カメかせいぜい2カメでの撮影だ。テレビじゃカメラを5台も6台も使って撮る。生放送のときなんて、こっちはその5カメや6カメの映像をリアルタイムで瞬時に選んで編集していたのだ。俺の方が上手いに決まっているだろう。

夜寝る前に台本を書いて、布団に入って目を閉じたら、「よーい、スタート」でカメラを回す。それでどんな絵になるか想像する力がない限り、編集もできなきゃ、現場に行っても撮影はできない。別に訓練したわけじゃないけれど、最初の映画からそうやって作っていた。
映画にもよるけれど、一本の映画に1000カットあったとして、その1000カットの順番は頭に入っているのだ。あのカットは何秒ってことが、だいたいわかる。
だから、編集するときには、スクリプターの人に聞かなくても、「4シーンの3カット目を出して」ソラで言える。
頭の中でカメラを回せなきゃ、映画監督なんてやってられないのだ。

役者の才能も、演じてみないと絶対にわからない。あれも頭がいいとか悪いとかとは関係のない、ひとつの天性なのだろう。そのかわり、いくら私には演技のセンスがあるなんて言ってても、カメラを回したら一発でわかる。
俺はどうだったかというと、そこでかなりズルをした。
最初の作品は、大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』。あのときはもう、保険を描けまくった。坂本龍一と2人で大島監督と談判したのだ。
「俺たちはほんとは映画なんかでたくない。俺は漫才、坂本は音楽で十分喰える。それでも俺たちを使うなら、俺たちは役者じゃないんだから、犬か猫だと思ってくれ、怒ったら帰っちゃうから」
「商売が違うのはわかっているから、絶対に怒らない。だから協力してくれ」
大島監督にそう言わせてから、はじめてカメラの前に立った。
スタートの声がかかっても、平気で「台詞なんだっけ?」とか聞いていた。
大島さんは「うーっ」なんて唸ってる。怒るのは約束違反だ。俺たちを怒れないもんだから、周囲のスタッフに当たり散らしていた。
考えてみりゃ、悪いことしたなあ。
絵や小説は個人プレーだけど、映画はチームで作る。
映画の中身は監督の頭にあっても、それを実際の映像や音にするのはスタッフだ。野球の監督と選手の関係と似ている。スタッフをいかに本気にさせるかが、もうひとつの監督の腕の見せ所だ。
これも野球と同じように、監督によって本気にさせる方法は違う。深作欣二監督のチーム助監督をやっていた人の話だけれど、あの監督と仕事するたびに、二度とこの人の助監督なんかしないって思うらしい。現場じゃ怒りまくる。酒を飲んではスタッフにメチャクチャなことを言う、みんなが徹夜で仕事をしていても平気な顔してる。
「1本映画を撮り終わったら、もう絶対あの人とは仕事しないって思うんだけど、しばらく経って、深作さんに『次もまた頼むよ』って声かけられると、なぜかまたついていってしまうんだよ」
彼はそう言っていた。それじゃ性悪女じゃないかって、俺は笑ったんだけど。
深作さんが性悪女タイプだとしたら、俺は介護老人タイプだ。俺のスタッフは、俺のことを放っておけないと思っている。放っておくと何するかわからないから、みんな俺を心配して甲斐甲斐しく仕事に取り組んでくれる。
知っていることも知らないふりをして、「こういうのはどうやって撮ればいい?」って聞く。スタッフはみんなプロだから、わかりませんとは言わない。「じゃあこう撮りましょう」ってアイデアを出してくる。
「そんな撮り方できるの?」
「できます」
ほんとうはできなくても、そう言ってしまう。でも言ってしまった以上、なんとか工夫してやり遂げてくれる。その工夫が映画を面白くする。
だから俺は、怒ったり、命令したりはしない。まずスタッフに聞く。
「こういう風に撮りたいんだけど駄目かな?」
「このシーンはどうやって撮ればいい?」
とにかく、なんでも相談してしまう。
最終的には自分のやりたいようにやっているのだが、もしかしたらもっといい意見が出るかもしれないから、まずは聞くのだ。
みんな映画が好きでこの仕事をしているわけだから、意見を求められれば、一所懸命考えて働いてくれる。だから手抜きなんか絶対にしない。
スタッフの能力を最大限に引き出すには、これがいちばんだと思っている。