「生死の問題(一部抜き書き) - 北野武」幻冬舎文庫 全思考 から

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「生死の問題(一部抜き書き) - 北野武幻冬舎文庫 全思考 から

この12年間は、病室で見ていた夢だったのか?

生きることに興味がなくなっても、精神的な恐怖感は消えない。
事故から12年の歳月が流れても、それだけはどうにもならない。いまだにふっと想像して身の毛のよだつ思いをすることがある。
その恐怖は、夜、眠りにつくときに襲ってくる。
明日の朝、目を開けて、そこがまだあの病室だったらどうしよう。
あの大怪我から奇跡的に回復したっていうのは単なる夢で、ふと目を覚ましたら、この12年の間、自分は病院で相変わらず点滴につながれたまま、ずっと植物状態で生きていたという可能性だってあるんじゃないか。これは病室で見ている、俺の夢なんじゃないか。
いまだに外に泊まった朝、目を覚ましたら、まったく見覚えのない部屋をみて、どうしようと思うことがある。これは、自分の部屋じゃない。どこなんだと、寝ぼけた頭で考えながら、恐怖とともに浮かんでくるのは、決まって、「ここは病室じゃないのか」という思い。
だけど、あの病室には、こんなカレンダーはかかっていなかった、あんな洒落たブラインドはかかってなかった、なんて考えているうちに、ようやく意識がはっきりして、昨夜のことを思い出す。そして、心の底からほっとする。
この恐怖感は、いまだに消えない。酒を飲んで、酔っぱらって、意識が朦朧としているときにも、そういう妄想に襲われる。
これはあの夜、バイクにまたがってから後の記憶が抜け落ちてしまったことと関係している気がする。つながりの悪い映画みたいに、何の脈絡もなく、目を開いたらベッドに縛りつけられていたという経験が、トラウマになっているのだ。心の傷なんて甘ったるいことは言いたくないが、このトラウマは死ぬまで消えないだろう。

事故の状況は具体的に何一つ憶えていないのだが、ときどきフラッシュバックの変な揺れた映像が浮かぶことがある。
たとえば、クルマに乗っているとき。「アブねえ、左から来るぞ」って思わず口走ると、運転手が不思議そうに「いや、なんにもないですよ」と答える。「あ、そうか。でも、何か今、見えなかったか?」って。
運転手はプロなんだから、任せておけばいいのに、落ち着いて乗っていられない。それも妙なことに、前じゃなくて、横ばかり気になって、横ばかり見ている。「おい、横に人が歩いてるぞ」「自転車がくるぞ」とか。そのたびに「わかってます」と運転手に言われて「ああそうか、わかってるのか」って、小さくなっている。
口うるさいのはわかっているが、どうしても気になって仕方がない。

そういう意味じゃ、まだ死を怖がっているんだろうか。
死そのものではなく、そこに至るまでの痛みや、苦しみを怖がっているのだと、自分では思っているが。
精神は恐れていなくても、肉体は本能的に死から逃れようとする。ひどい苦痛を感じると、呼吸が自然に荒くなるように。何かが飛んで来れば、ひょいと身を屈めてしまうように。いざ死が目前に迫ったら、カラダが勝手にじたばたともがくんじゃないか。それはそれで、ひとつの恐怖だ。

三島由紀夫さんは、ボディビルに剣道、ボクシングといろんなスポーツをしていた。けれど聞いた話では、あの人の動きはいつも、操り人形のような、ぎくしゃくした感じがしたそうだ。三島さん自身も、そのことに気づいていたんじゃないかって思う。つまり、自分の運動神経のなさに。
それは、あの人の美意識をひどく傷つけたに違いない。頭で考えることよりも、肉体で行動することを尊んだあの人にとって、そのことがすごくコンプレックスになっていたんじゃないか。突拍子もない考えだが、あの自決は、そのこととも関係していたんじゃないかという気がする。もちろん、政治的な主張をというものは別にしての話だ。つまり、あの自決には、精神の肉体に対する仕返しって意味があったのではないか。
身体は、どんな状態にあっても、生きようとする。
自決っていうのは、その強い本能を、精神が屈服させるということだ。肉体の運動をコントロールするのは精神だけど、その究極は、頭で肉体を殺すこと。三島さんはつまり、それをやったんだろう。肉体を死という究極の命令に従わせることで、屈服させたんじゃないだろうか。
俺はその反対に、頭がいくら死を納得していても、肉体がそれに反発して、死から逃れようとする気がする。運動神経はいいほうだから、なおさらだ。そして臆病なくせに、いざとなると頭が真っ白になって、とんでもないことをしでかしてしまう。それは、最後の死に際ということを考えると、ちょっと面倒なことではあるのだ。
痛みや苦しみを感じずに、すっと死ねたらと思うけれど、それができるかどうか。飛行機がハイジャックされて、犯人に拳銃を突き付けられたら、俺は何も考えずに立ち上がって、反射神経のままにその拳銃を掴んでしまうんじゃないかという恐怖。そうやってジタバタしながら、死んでいきたくはないのだが......。
即死なら、痛みや恐怖を感じる暇はない。何かに触って、熱さを感じて手を引っ込めても火傷してしまうのは、神経を刺激が伝わるスピードが遅いからだ。
皮膚で感じた熱さが神経を伝わって脳に達するまでの速度は、せいぜい音速の3分の1だと聞いたことがある。光のスピードがあれば、焦げる前に手を引っ込めることだってできるだろう。
ただ、どんな運動神経のいい人間だって、その速度には限界がある。
ということは即死なら、脳が何かを感じる前に、ぐにゃっといってるわけだから、何も感じないはずだ。
飛行機に乗るときも、そういう死に方なら、なんてことないじゃないかと考える。考えるということは、それだけ死を意識しているということなんだろう。
TAKESHIS'』って映画を撮っていたときも、そのまま読めば「タケ死す」って読めるなあ、なんて考えていた。これが遺作になったら、恰好いいかな、とか。それが運命なんじゃないか、とか。
そう考えると、いろんな偶然が、偶然じゃないように思えてくる。デジタル時計を何気なく見ると、数字がいつもゾロ目になっていたりする。11時11分だったり、2時22分だったり、3時33分だったり。時計を見るたびに数字が揃っている。ちょっと計算してみれば、その数字は1分間変わらないわけだから、確率的にはそれほど特別なことじゃない。それでも、そういうことがやたらと気になってしまう。

死ぬとなったら、淡々と死んでいくんだろうとは思うが、その一方で、都合のいいことを考えている俺もいる。
自分を客観的に眺めて、生きていることを演出するとしたら、いちばんの理想は、いい映画を撮れたときに死ぬことだ。しかし、映画っていうものは完成した瞬間に、気に入らないところが次々に見えてくる。自分の映画に満足することはない。満足するようじゃ、映画監督なんて続けられない。
だから俺も、生きることに興味がないなんて言いながら、いざ死神が現れたら、こう言ってしまいそうな気がする。
「あと1本だけ映画撮らせてくれねえか」
人間、歳を取ると図々しくなる。