1/2「日本古典文学の特質ー余情の文学 - ドナルド・キーン」朝日文庫 日本人の質問 から

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1/2「日本古典文学の特質ー余情の文学 - ドナルド・キーン朝日文庫 日本人の質問 から
 

日本の詩歌のもう一つの特徴は、行動が非常に少ないというか、または、中心となる経験が非常に少ないことです。恋人に会ったとか、恋の喜びとか、そういうことは、まず歌の材料にはならない。恋人が来るのを待つとか、恋人が去ってから、その人のことをなつかしく思い出すとか、つまり始まりと終わりが大切で、真中の個所については沈黙を守るのです。それは一種の礼儀かもしれませんが、ともかくヨーロッパの詩歌と比べて、真中に相当する経験が不思議に欠けているというほかありません。これは恋人同士の話に限ったことではないのです。
一般的にいいますと、日本の詩歌では豊富な内容よりも余情の方が大切です。余情といえば、始まりとか終わりの方が余情に富 むはずです。『 徒然草』のなかに兼好法師が「万の事始終(はじめをわり)こそをかしけれ」と書いた通りです。日本人は、歌を詠む姿勢になると、何か歌の三十一の文字以上のことを伝えたい、という気持ちが確かにありました。ですから、いくら桜の花が好きな人でも、桜の花のことばかりを詠んでいたはずはありません。自分の心境とか自分のわびしさ、何でもいいけれども、きっと何か言葉を超えるような感情や感想を間接的に述べていたのです。そして、何でもないきわめて平明な和歌のなかに深みを見つけることが、日本の長年の読者の一番の楽しみだったと思われます。
終戦直後、潁原退蔵(えはらたいぞう)という大変優れた国文学者が書いた『余情の文学』という本が発表されました。その題は言うまでもなく日本の文学を指していました。特に歌の場合、満月よりも三日月の方が詩的だとか、満開の桜よりも蕾の桜や散っている桜の方が詩的だと日本人は伝統的に考えていました。これは『徒然草』に、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と兼好法師が反語の形でその考え方を表現しましたが、ヨーロッパ人の多くは、それが反語であることに気がつかないと思います。薔薇を描く時は満開、月を描く時は満月という常識があったと思います。しかし日本の場合は、やはり、散った後の桜には余情があるので、花が満開のときよりわれわれの感動に値すると思わ れていました。こういう考え方が日本独特の美意識を代表すると思います。しかもそれは歌の場合に限らない。能の場合でも歌舞伎の場合 でも、同じような現象が認められると思います。
幽玄ということは、それと関係があると思います。私は今、二つの非常に - 私に言わせると - 典型的な日本の詩歌をあげたいと思います。二つともよく知られているものですが、一つは、定家の歌です。

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ

これは、何の特徴もないような表現だというほかありません。特別に奇抜なイメージもなく、修辞上の面白さも別にありませんが、この和歌から、何か幽玄のようなものを感じない人はまず一人もいないでしょう。そして歌の意味については、いろいろな解釈ができるでしょうが、「花も紅葉もなかりけり」のいう意味は、やはり、たいていの人にとって鑑賞するような現象がないということです。つまりたいていの歌人は、桜の花を見たり、紅葉を見たりすると、歌が詠みたくなり、筆をとりたいということはありますが、定家が描いた風景には、それがないのです。この風景には花も紅葉もない。何があるかというと、「浦のとまや(苫屋)」だけです。私たちには「とまや」の方が詩的に聞こえますが、それは 鉄筋コンクリートの建物に住んでいる人の心境でしょう。藤原定家にとっては、「とまや」は決して美しいものではなかったでしょう。自分が住みたい所ではなかったはずです。それにもかかわらず、秋の夕暮のよさを知ろうと思えば、やはり、花もない、しかも御殿のようなすばらしい建築もない、わびしい風景が最もふさわしい、最も深く感じさせるものがあると、感じたのでしょう。
これは、墨絵の世界です。花とか紅葉のような鮮やかな色彩の全然ない墨絵の世界には、華やかな世界よりも深みがあると感じられます。絵を描く場合、紅葉を真赤に塗ると、その紅葉は赤に限られてしまいます。どの人が見ても赤いとしか見えません。しかし紅葉の絵に紅(くれない)の絵具を使わない場合、見る人の眼によって描かれた紅葉の色が違ってきます。墨絵は、どんなすばらしい絵具で描いた絵よりも、私たちの想像力に訴える力があると思います。