1/3「プロローグ(死はいつもそこにある) - 水木しげる」光文社文庫 極楽に行く人 地獄に行く人 から

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1/3「プロローグ(死はいつもそこにある) - 水木しげる光文社文庫 極楽に行く人 地獄に行く人 から
 

死はいつもそこにある

こんなタイトルの本を出すと、死にたいのかと聞かれそうだが、そんなことはない。そもそも、まだ死なない。というのも、ぼくのまわりにいる「見えない力」たちが、ぼくに最後の仕事をやらせている最中だからだ。いまの人たちが忘れてしまった世界のことを、できるかぎり伝えろと、毎日働かされている。
忘れてしまった世界というのは、霊界の話であり、死後の世界の話であり、おばけ、妖怪の世界の話なのだが、これは全部つながっている。
そのなかで死後の話を今回はしようと思う。
ぼくは、幼い頃から、死を身近に感じてきた。当時は人がよく死んだ。遊び仲間も、近所の人も、親戚も、しょっちゅう死んでいた記憶がある。中国ではもう戦争が始まっていたから、戦死者がでると、英霊を駅まで迎えにいくのも習わしになっていたこともあるのだろう。ぼくも大人になったら当然戦争にいくものだと思っていたから、毎日が曇りのような気分だった。
まわりの大人もこどもも、死んだらどうなるのかという話をよくしていた。どこそこの婆さんが米寿を目の前に死んだ。すると、どこかの婆さんが、「病まずに死んだのも信心のおかげ」というご高説を垂れているのを聞いて、なんとなくそうかなあと思っていた。
夜間中学四年のとき戦争にとられた。徴兵だったから、階級はいちばん下の二等兵。送られた先は、激戦地のニューギニアラバウルで、それも敗色が濃くなった昭和十八年のことだった。
このラバウルをめぐる戦闘で、日本軍は完全に南大平洋の制空権を失い、戦友たちはほとんどが戦死し、ぼくも片腕を失った。戦争なんて二度と起こしてはならない。時間がたてば戦争の記憶を消してくれると思っていたが、そんなことはない。生死にかかわる記憶というのは傷として一生残るものなのだ。
くわしいことは、『ねぼけ人生』などでも書いたので、ここでは省略するが、ぼくが九死に一生を得たのは、まさに「見えない力」としかいいようがないものだった。現地の土人(「土の人」という親しみをこめてぼくはこう呼んでいる)に、ここに残らないかと言われ、それはできないが、「七年したら必ず来る」と約束をしたにもかかわらず、戦後のどさくさで漫画家になり、妖怪のことを描きはじめたのも、「見えない力」によるとしか思えない。
約束がはたせないまま、やっとラバウルに行ったのが、二十六年後のことだった。戦友たちと酒を墓標にかけて合掌していたら、一匹の白い蝶がやってきた。いくら追い払おうとしてもいつまでもまわりにいる。「これは、死んだ戦友の魂だ」とぼくは八ミリを回し、いっしょにいた戦友たちは、ただただ墓に手を合わせていた。生者の世界と死者の世界は、ひょんなことで重なり合う。蝶は、あちら側の世界からの使いとしか思えない。実際、あとで各地の言い伝えを調べたとき、白い蝶は、霊の使いだと書いてあった。
この年になってからも、ぼくのところにはいろんな頼み事が舞い込んでくる。それもぼくの力ではなくて、「見えない力」によるものに違いない。